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短編小説『予祝』第一章

 ベーシック・インカムという制度が始まったのはつい最近のことであった。政府から一定額のお金を毎月国民に無条件に給付するという制度だが、賛否両論、いろんな渦がある中で始まったのである。当然、仕事を辞める者も出てきたが、その反対に仕事を続ける者もいた。

 仲春。春分。雀始巣すずめはじめてすくうの侯。山奥の豊かな湧き水が農業用水路をさらさらと通り抜け、田圃たんぼの中へと流れていく。既に水で満たされた田圃には、頭上に広々と横たわる青い空が写し出されていた。あぜを通り抜けた先、小さな草原くさはらに津々浦きよしは仰向けになって寝転んでいた。目を瞑る。暖かな風が全身を撫で、鼻先に止まる。これは菜の花の香りだ。黄色く小さな花の集まって笑う姿が想起され、思わず微笑みを浮かべた。目を開ける。ごろりと体を横に向けるとハコベ、オオイヌノフグリ、ナズナたちが笑い、その他名の知らぬ草花たちが朝の太陽の光に向かって背を伸ばしていた。それを見た彼はまた笑みを零し、小さな幸せを感じていた。

 昼。ご飯を食べるため家に戻った彼に、唐突に話を始めたのは父であった。
「聖も米農家を辞めて別の仕事をしてもいいんだぞ」テーブルの上には缶ビールが一本置かれていた。
「ベーシックなんとかが始まった。仕事をしなくても充分なお金が入る。オレももう農業はやめるつもりだ」父はビール缶のプルタブを上げ、また戻す。「農業はやりたい奴らにやらせればいい。オレたちみたいな百姓を先祖にもった奴らからすれば、きつい仕事はもうこりごりだ」
「でも、それじゃあ食料自給率が下がるだろう」
「だからさっき言ったろ、物好きな奴らにやらせておけばいいんだよ」ビールをグイッと一口、二口して「だから聖も好きな仕事をすればいい。お前、ほら昔は絵描きになりたいって言ってただろ。好きなことやってみたらどうだ」
「いや、僕は今まで通り農業をしていくつもりだ。“いい歳して”絵描きなんて目指したりしねぇよ」
「お前がそう言うなら、オレはもう田に入らねぇから後は好きにしな」またビールをグイッと一口。
 父が昼間から酒を飲むようになったのは、“その制度”が始まってすぐのことだった。祝い事が好きであった父は、ベーシック・インカムが始まった時も祝い酒として昼間から飲み、きつい仕事から解放されたと喜んでいたが、その時に飲み癖がついたのか、今では毎日飲んでいる。
「……親父は酒飲み以外に何かしないのかよ」
「オレには酒で十分だ」
「少し前にギターをしたいって言ってたじゃねぇか。あれはどうした」
「それはやめたんだ・・・・・。お前も言ったろ、“いい歳して”始めることじゃない。この歳で練習したって覚えが悪くて、上達する前に死ぬだろうしな」
「そうかよ。先祖が百姓なら頭のつくりも百姓ぐらいにしかならねぇか、ハハハ」
「そういうこった、諦めろ。百姓オレには百姓オレの生き方がある」最後の一口をグイッと飲む。
「ハハハ……そんじゃ、田の様子を見てくる」
「飯はどうするんだよ。食いに戻ったんじゃないのか」
「まだ腹減ってねぇから、後にする」
「おう、無理はするなよ」

「一生百姓」“彼”は、ポツリと呟いた。
「それでもいいか」また、ポツリと呟いた。



 公募用(文學界)に書いてたんですが、力尽きたのでnoteに載せてます。続きは書きたい時に書きます。

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