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「あまちゃん」から導かれる80年代。角川映画とユーミン復活など。。1981年 シティポップ最盛期の名曲プレイリスト Vol.2

1981年シティポップのプレイリスト第2回目。
再放送中の「あまちゃん」が話題だ。そこに登場する2大アイドルの小泉今日子と薬師丸ひろ子の対決にネットが湧く。まさに1981年にこの2人は歌手の道を歩み始めた。そしてこのアイドル路線に絡んで復活の狼煙を上げたユーミン。大衆を魅了した角川映画。ネタが尽きない1981年のシティポッププレイリストVol2。

1981年シティポップ名曲21プレイリストVol.2

「あまちゃん」の再放送に登場する80年代

BSで再放送されている「あまちゃん」に毎朝夢中である。
あまちゃん』は、2013年度上半期放送された朝ドラ。
10年目の今年に再放送されている。

ストーリーもさることながら、80年代のカルチャアの洗礼を向けた私には、当時を思い出させてくれる懐古趣味の要素はたまらないものがある。
そして、小泉今日子薬師丸ひろ子という80'sの2大アイドルの共演。
つい最近ではドラマ上での2人の初対決にネットは祭りとなる。

もしかすると2人のデビューは1981年辺りだったかと調べてみると、
小泉は1981年3月『スター誕生!』で決戦大会でスカウトされ、翌1982年に歌手デビュー。
薬師丸は1981年11月、映画『セーラー服と機関銃』の主題歌で歌手デビューしており、音楽界ではほぼ同期だ。

1981年の冬、私は青山のとある音楽関係の宣伝を請け負う会社でバイトをしていた時、ある少女と偶然出会う。
デビュー目前のあるアイドルのプロモーションとして、駅の伝言板に「◯◯デビュー!」と書いて回るバイトを依頼され、学生の動員を任される。
そのアイドルがある日事務所に挨拶に訪れた。
顔の小さなその少女は「小泉今日子です、よろしくお願いいたします。」と挨拶をした。
それだけの出会いだが、40年経過しても忘れることはない。
その少女は翌年「私の16才」でデビューする。

また「あまちゃん」にはYMO君に、胸キュン。を演奏している姿も映し出された。これは1981年の2年後の1983年散開間近のYMOがリリースしたシングルだった。

脱テクノポップした1981年のYMO

1981年のYMO。

1981年2月にはYMOがサポートした矢野顕子春咲小紅も化粧品CMタイアップの力でこの年にヒット。糸井重里作詞のこの曲は、チャート5位と彼女唯一のシングルヒットとなる。
大滝詠一同様にマニア的な存在だった矢野がメジャー化した瞬間だ。

A LONG VACATION』が発売された1981年3月21日、同日にYMOは問題作「BGM」を発売する。軽快でわかりやすいテクノポップから逸脱した、退廃的なサウンドに拒絶反応が多く、従来からのファンの失望を買うのだった。
前年1980年には多かったYMOメンバー参加のシティホップも減少。YMOでもベースを弾かない細野氏は、ほぼベーシストとしては休眠状態だった。「BGM」は当時は賛否両論だったが、今では最高傑作と言われる。

1.Drip Dry Eyes/高橋幸宏 

1981年6月にアルファレコードから発表された高橋幸宏(ユキヒロから改名)の3枚目のソロアルバム『NEUROMANTIC』(ニウロマンティック)も「BGM」と同様の路線。翌年には「Avalon」をリリースするロキシー・ミュージックアンディ・マッケイフィル・マンザネラらが参加しており、前作「音楽殺人」とは異にする欧州的なサウンドだ。
ドリップ・ドライ・アイズ(Drip Dry Eyes)は、サンディーに提供した曲のセルフカヴァーで、アンディ・マッケイのサックスが聴き物。トニー・マンスフィールド細野晴臣が Keyboards、大村憲司がギターで参加。

2.春がいっぱい/大村憲司

1981年2月リリースのYMOのサポートギタリスト、大村憲司のアルバム「春がいっぱい」からのタイトルカット。
コ・プロデュースに高橋幸宏坂本龍一、演奏で細野晴臣、そして松武秀樹矢野顕子等YMOファミリー全面参加で制作されたアルバム。
シャドウズのナンバーをYMOのバックアップでカヴァー。

3.風に抱かれて/山口美央子

当時は「シンセの歌姫」と呼ばれた山口美央子の2nd『NIRVANA』より、現在のDJシーンで最も人気があるAORディスコの名作風に抱かれて
今回のプレイリスト作成を通じての収穫はこの人。今まで存じ上げなかったが、知れて良かった。
「当時YMOにはとても影響を受けました。KYLYNから辿っていくうちにYMOに行き着いたというか。」と本人は語る。
アレンジャーは井上鑑、シンセサイザー・プログラミングにYMOの準メンバー的な松武秀樹とフュージョンとYMO風味のテクノの掛け合わせが魅力。
林立夫松原正樹今剛のPARACHUTEの面々とマライアの山木秀夫が参加している。

4.走れウサギ /金井夕子

1978年「スター誕生」でスカウトされたアイドルの金井夕子。1979年にテクノ歌謡路線に変更し『CHINA ROSE』をリリース。
歌手引退後はキョンキョンの作詞も手がけた。
走れウサギは1981年2月リリースの『écran』より。作詞は糸井重里、曲・編は細野晴臣。ベースもこの時期には珍しく細野晴臣。ドラムは高橋幸宏、ギターは大村憲司、キーボードは矢野顕子というほぼYMOのメンバー。

ユーミンの低迷期

5.スラバヤ通りの妹へ / 松任谷由実

松任谷由実に改名して暫くはヒットに恵まれないユーミン。自らもこの時期を低迷期と語る。『水の中のASIAへ』は12インチEPとして、1981年5月にリリースされた
半年前リリースのリゾート路線の「SURF&SNOW」から一転して、欧米志向のこの時代の日本で「アジア」というテーマは支持を得難いものだった。80年代半ばにはタイ料理など食からアジアブームとなり、旅先としてもバリ島などがもてはやされるが、彼女の先見性は当時は早過ぎていた。
チャート最高順位9位とこの作品も中ヒットに終わり低迷期が続く。
スラバヤ通りの妹へはEP故に知られることは少ないが、隠れた名曲。
ジャカルタを訪れた女性の心情を歌い、「やせた年寄りは責めるように 私と日本に目をそむける」のような太平洋戦争の傷跡までも歌い込まれた壮大なもので、低迷期と言いつつもその創作力は他を寄せ付けない。
曲中幾度も繰り返されるフレーズ"RASA SAYANG GEH"はインドネシア語で「残念だね」の意。
低迷期と言いつつも、この時期、埠頭を渡る風DESTINY恋人がサンタクロースなどライブの定番曲が多く生み出された。

元ちとせや大江千里のカバーもある。

6.まちぶせ/石川ひとみ

石川ひとみまちぶせは、1981年4月にシングルとして発売された。石川のシングルとして最高の6位となる。
元々まちぶせは、荒井由実が作詞・作曲し、三木聖子へ提供され、1976年に発売された。
カバーとなった石川のまちぶせも三木と同様に編曲は夫の松任谷正隆
松任谷正隆まちぶせの歌詞について、「ストーカーの歌ですよね(笑)。メロディはともかく、詞は彼女でなければ書けない世界」と語っている。
自分がバイトしていた海の家でもこの曲はヘビーローテーションされ、「荒井由実の曲?」と久々に聞く荒井由実という名前に反応したものだった。
再度、荒井由実の作曲家としての才能にもスポットが当たる。

角川映画

角川映画の第1作は1976年の『犬神家の一族』。その後、ジョー山中人間の証明のテーマがヒット。映画と主題歌をセットにしたプロモーションでヒットの方程式を作る。1981年は「スローなブギにしてくれ」(1981年 3月)、「ねらわれた学園」(1981年 7月)、「セーラー服と機関銃」(1981年 12月公開)が成功した。

7.守ってあげたい/松任谷由実

守ってあげたいは1981年7月に公開された薬師丸ひろ子主演の角川映画『ねらわれた学園』の主題歌として、角川春樹の依頼で書き下ろされた。
1981年6月にリリースされ、チャート最高順位は2位、累計69.5万枚のセールスを記録し、ユーミンは低迷期を脱して復活の狼煙を上げた。

1976年に松任谷正隆と結婚し、荒井由実から松任谷由実になったことで、「元・荒井由実」などと書かれ、人気やライブの動員も落ちていった。
シングルは1976年3月の「翳りゆく部屋」が10位になって以来、5年ぶりのベスト10入り。低迷期は5年という長きに及んでいたのだった。

それを打破したのはやはりタイアップの力。当時は化粧品のCMタイアップ、そして角川映画とのタイアップが勝利の方程式だった。
ドラムは島村英二、ベースは高水健司、ギターに松原正樹、パーカッション斎藤ノブ、コーラスはBUZZにキーボードは松任谷正隆。

その後の1981年11月に発売された『昨晩お会いしましょう』は荒井時代の「14番目の月」以来、5年振りのアルバムでの1位獲得となる。
カンナ8号線など、その後のライブの定番となる人気曲が含まれていた。
そこから1997年『Cowgirl Dreamin'』まで、17年間、17枚連続で、オリジナルアルバムが最高位1位を獲得するユーミンは、暫くは無敵艦隊と化すのである。

8.「スローなブギにしてくれ (I want you)/南佳孝

片岡義男の小説を原作とする角川映画の主題歌。主演は浅野温子で1981年3月公開。南佳孝が手掛けた主題曲である本曲は、オリコン6位記録する南の大ヒットとなった。アルバム「SILKSCREEN」に収録。
当時は筒井康隆に熱中していた自分は片岡義男の小説に心ときめくことはなかったが、彼の深夜ラジオ「気まぐれ飛行船」はよく聴いた。とにかく声の良い人で、またアシスタントの女性の安田南温水ゆかりも魅力的だった。翌年にはパイオニアのコンポーネントカーステレオ「ロンサム・カーボーイ」のCMナレーションを担当したのが印象深い。
南は後にはやはり片岡原作の角川映画『メイン・テーマ』で、薬師丸ひろ子が歌う主題歌を書き下ろした。

9.セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子

前述のように歌手薬師丸ひろ子角川映画「セーラー服と機関銃」の主題歌を歌い、この1981年11月に歌手デビューしている。
主題歌は、もともと作曲者の来生たかおが歌う夢の途中に決まっていた。しかし、監督の相米慎二が「薬師丸ひろ子に歌わせる」と言いだし、来生は歌手としては下ろされることになった。そして、姉でもある作詞者の来生えつこが激怒し、2人が競作でリリースしたという曰く付き。
セールスは翌年5週連続1位を獲得するなど年間2位を記録。
薬師丸はこの後は松田聖子と同様に、大滝詠一ユーミンともタッグをタッグを組み歌手としての地位を確立する。
あまちゃん」の『潮騒のメモリー』も画面では小泉今日子と競作だったが、本業の小泉を凌駕する歌唱力を披露した。

10.夢の途中/来生たかお

姉のゴリ押しで、来生たかおの本歌も夢の途中として、1981年11月にほぼ同時にリリースされ競作となり、翌年3月には最高第4位、来生としては最大のヒット曲となった。
この年には大橋純子のシルエット・ロマンス、翌年には中森明菜のセカンドラブが大ヒットして作曲家として頂点を迎える。

1981年シティポップ名曲

11.テレフォン・ナンバー/大橋純子

1981年の大橋純子と言えば、前述の来生たかお作のシルエット・ロマンスが有名だが、シティポップの範疇で言うとシングルでもないこのテレフォン・ナンバーが人気である。
松原みき真夜中のドアと同様、昨今の世界的なシティポップ・リバイバルの流れに端を発して、現在世界中で聴かれている。(Spotifyの再生回数は1800万回)
美乃家セントラル・ステイションを解散し大橋純子が1981年にリリースした『Tea For Tears』の収録曲。作詞三浦 徳子、作曲は元美乃家の佐藤 健、編曲萩田 光雄。

12.ニートな午後3時/松原みき

ニートな午後3時は「-CUPID-」からのシングルとして1981年2月リリース。資生堂 '81春のキャンペーンソングとなる作詞は三浦徳子、作曲は小田裕一郎、そして編曲は佐野元春や松田聖子で知られるシティポップの重要人物の大村雅朗。元美乃家の見砂和照(drums), 岡沢茂 (bass), 今剛 (guitar), 大谷和夫 (keyboards)が参加。今剛のギターが軽快に響き、岡沢茂のチョッパーが印象的なファンクチューン。

13.Fly-Day Chinatown /泰葉

フライディ・チャイナタウン (Fly-Day Chinatown)は林家三平の娘として知られる泰葉のデビュー・シングルで、1981年9月に発売された。編曲は井上鑑がここでも担当し、パラシュートのメンバーが演奏にも加わる。
三平の娘としてキワモノ扱いもされたが、抜群の歌唱力だった。
当時ヒットチャートの最高順位は69位だったが、近年ではシティポップブームに乗り、Spotifyでは2200万回の再生回数を記録。
下記文春の記事によると
「そもそも、英語圏インターネットでフライディ・チャイナタウンが大きく注目されたきっかけも、2015年にYouTubeに投稿されたファンメイドのアニメ動画だった。
と言うことで新たなビデオもアニメで作成されている。

14.月下美人/門あさ美

セミヌード』は1981年7月にリリースされた門あさ美の3枚目のアルバム。月下美人は9月にシングルとしてリリース。作詞・作曲は門あさ美、編曲は松任谷正隆。前作『サシェイ』に引き続き、アルバム・チャートでトップ20入り。当時はマスコミへの露出を控えていた謎の存在にも関わらず、安定したセールスがあった。

15.Loving You/原由子

サザンのハラ坊こと原由子のデビューアルバム『はらゆうこが語るひととき』は1981年4月の発売でチャート6位まで上昇した。Loving Youはヤマハ発動機「パセッタ」CMソング。サザンの松田弘がDrums、桑田佳祐がコーラスで、現ギタリストの斎藤 誠がギターで参加。この年サザンは『ステレオ太陽族』をリリースしチャート1位となる。シングル首位は翌年のチャコの海岸物語を待たねばならない。

爆発する高中人気と小林泉美

14.PALM ST./小林泉美

小林泉美Flying Mimi Band高中正義バンドを経て1980年にパラシュート結成に参加したが一枚目リリース後に脱退。その後に加入したのが井上鑑
1981年にはテレビアニメ『うる星やつら』に主題歌「ラムのラブソング」を提供し、今もアニメ界ではカリスマ的な人気。
Coconuts High」は小林泉美の傑作トロピカル・フュージョン・アルバム。PALM ST.は高中正義に提供したセルフ・カバーで、スティール・パンの音色が涼しいラテン風味のトロピカル・ディスコ 。
ハーヴィー・メイスン(ds)、ポール・ジャクソンJr.(g)、アレックス・アクーニャ(ds, perc)、エイブラハム・ラボリエル(b)、タワー・オブ・パワーなど海外の豪華ミュージシャンや田中章弘、高中正義が参加。
小林はこの後に渡英し、スウィング・アウト・シスターなどにスタジオミュージシャンとして参加した。

15.THUNDER STORM/高中正義

前年BLUE LAGOONがヒット、当時人絶頂の高中正義小林泉美も参加した1981年3月にリリースの虹伝説 THE RAINBOW GOBLINSは最高3位にチャートインした。
THUNDER STORMはプロレスラー天龍源一郎のテーマ曲として知られる。
当時自分もプロレスに夢中で、1981年は新日本プロレスの創立10周年として9月23日に田園コロシアム大会が開催され、伝説の対決「スタン・ハンセンvsアンドレ・ザ・ジャイアント」戦が記憶に残る。
村松友視の名著「私、プロレスの味方です」が発刊され、翌年には藤波vs長州の人気対決が開始され新日本ブームは頂点に。全日本プロレスにいた天龍はまだ若手の1人で猪木の得意技、延髄斬りを使用し話題になったが不恰好なもので低迷期でもあった。その後の天龍革命でブレイクを果たすのは先のことで、81年の時点ではテーマ曲ではなかった。

ナイアガラトライアングル

18.悲しきRadio/佐野元春

Heart Beat』は1981年2月にEPIC・ソニーから発売された佐野元春の2枚目のアルバム。
悲しきRADIOの作詞・作曲は佐野元春で編曲はThe Heartlandに参加した伊藤銀次と共同。この曲は、ライブだとほぼインプロビゼーションで10分以上のパフォーマンスになることも珍しくない。ジーン・ビンセント、チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリーが歌詞に登場する。伊藤銀次との出会いが、後には大瀧詠一との出会いに結びつくのだ。

19.SOMEDAY /佐野元春

SOMEDAYは『Heart Beat』に収録予定だったが、間に合わずにシングルとして1981年6月にリリースされた。
現在は名曲として知られるが、発売時はシングルチャート最高位は84位と佐野のセールス的な不振は続いた。
大滝詠一の『A LONG VACATION』のレコーディングの現場を見学した佐野は、SOMEDAYのレコーディングを開始した。SOMEDAYフィル・スペクターばりのウォール・オブ・サウンドは、大滝詠一から学んだものだった。
「大滝さんがレコーディングをしていたスタジオに赴き、大きなヒントをいただきましたね。この楽曲はウォール・オブ・サウンド(フィル・スペクターが1960年代前半に開発した、音圧を上げるための音楽制作手法)の影響を受けて制作したのですが、どうやって完成すればいいのかわからずにいたところ、制作現場を見てこうすればいいんだとわかりました」と語る。
大滝詠一からウォール・オブ・サウンドを学んだ佐野が、後に大滝とのコラボプロジェクトのナイアガラ・トライアングルに参加したのも必然であった。

20.A面で恋をして /NIAGARA TRIANGLE

1981年10月21日に発売されたナイアガラ・トライアングルのシングル。松田聖子の風立ちぬと同月にリリースされた。
山下達郎、伊藤銀次との前作『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』以来6年ぶりのトライアングル企画第2弾では佐野元春杉真里をスカウト。今回参加となった佐野元春は1980年にデビューしたての世間的には新人。杉真里は1977年にデビューしたが入院し活動を一時休止、1980年に再度デビューしていた。
A面で恋をしては作詞は松本隆、作曲は大瀧詠一。

その年の12月のヘッドホンコンサート。

佐野とは『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』の伊藤銀次が佐野のTheHeartlandに参加しており、『A LONG VACATION』のレコーディングを佐野が見学したことで知り合う。一方の杉は慶応大学在学中に竹内まりやとバンドを結成。作曲家として竹内まりや須藤薫等に楽曲提供しており、大滝とはビクターのディレクター川原伸司の紹介で知り合っていた。
『1981年の新宿のルイードのステージでいきなり大滝さんの口から「NIAGARA TRIANGLE Vol.2」にお誘いいただいた時は驚きましたが、僕が即座に「やります!」と答えたのがよかったんです。あの時、「事務所と相談して決めます」なんて言ってたら、ナイアガラの話はなかったと、随分後になって大滝さんから聞きました。』と杉は語る。
以下のラジオではその秘話が語られる。

1982年へ

21. 砂浜/杏里〜角松敏生デビュー

また1981年には角松敏生がデビュー。シティポップの新世代が真打として登場した。Spotifyにはなくプレイリストには入れてないが、エポックメイキングなデビューだろう。
SEA BREEZE』は1981年6月に発売された角松敏生のデビュー・アルバム。名曲Still, I'm In Love With Youが収録された。
この年は商業的成功を収めることは出来なかったが、我々大学生の間では隠れた人気があった。
この後、杏里のアルバムへの楽曲提供等、さらに1983年スカイ・ハイのヒットでセールスも上向きとなって、ビッグアーティストになる。
この年杏里はセールス的には冴えないが、隠れた名曲として今も人気の高い砂浜をリリース。

1982年のシティポップ界隈とその後の主要人物

大滝詠一A面で恋をしてをアルバムに発展させ、『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』として、1982年3月に発売。最高2位を記録し、50万枚近いセールスとなる。
1983年は探偵物語の主題歌を薬師丸ひろ子に提供するが、本人のアルバムはリリースされず、1984年となり待望の新譜「Each Time」をリリース。大滝詠一としては唯一の1位獲得作品となる。しかし、音楽活動を休止することを宣言し、シングルや小泉今日子への楽曲の提供などはあったが、「Each Time」が最後の作品のまま2013年に残念ながら逝去する。

松任谷由実はシティポップの名作とされる『PEARL PIERCE』をリリース、2作続けて1位を獲得した。
また作曲家呉田軽穂として赤いスイートピー松田聖子に提供する。

1年間リリースをお休みした山下達郎は名作「FOR YOU」をリリース、年間2位のセールスのメガヒットとなる。

YMOは1981年末に「テクノデリック」をリリースするが、1982年はアルバムリリースが途絶えた。
1982年2月には忌野清志郎+坂本龍一のシングル「い・け・な・いルージュマジック」がリリースされ、50万枚を売り上げるヒット曲となった。
YMOは1982年に解散する計画であったが、アルファの意向もあり1983年までは形式的に存続したが、同年12月に散開する。

NIAGARA TRIANGLE Vol.2』に参加して知名度が上がった佐野元春。1982年5月には『SOMEDAY』がEPIC・ソニーから発売された。
「このアルバムが売れなければ、活動をやめようと思っていた」と背水の陣で臨み、結果は最高位4位を記録するヒットとなる。
また大滝詠一、佐野元春の縁の下の力持ちとして尽力した伊藤銀次も名作「Baby Blue」をリリース、シティポップの名作に数えられる。

小泉今日子の現役感

また1982年にデビューした小泉今日子「花の82年組」と呼ばれるアイドルの一人に数えられ、中森明菜らと鎬を削った。
2013年の「あまちゃん」を経て、昨年には40周年を迎えた。
2018年には大手芸能プロダクションのバーニングを退社し、舞台、映像などを企画製作する「明後日」を立ち上げ、代表取締役 小泉今日子となる。

大滝詠一、高橋幸宏、坂本龍一、大村憲司、松原みき須藤薫とここに登場した多くの主要人物は物故し、1981年も遠い過去になりつつある。

存命する人物も第一線を退く中、56歳の今もなお過去の延長線上ではなく、現役感もある生き方は賞賛に値する。
今年は演劇ピエタをプロデュースするなど、自らを常にアップデートし、忖度のない世界で活躍する姿は頼もしい。





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