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【神奈川のこと82】Let's妙蓮寺!(横浜市港北区)

五月晴れの憲法記念日。
多分恐らくmaybe、生まれて初めて東横線の妙蓮寺駅を降りた。
よって、これを書く。

この街は、父が幼少期から成人になるまでの約20年間を過ごした、いわば父にとっての故郷だ。

父は、太平洋戦争が始まるわずか数か月前の昭和16年(1941年)8月、東京は大森に生を受け、その後すぐ妙蓮寺に引っ越し、戦時中は叔母(私にとって祖母の妹)が修道女として生活していた函館のトラピスチヌ修道院で疎開暮らしをした。
戦争末期、ソ連が北海道に攻め込んでくるかもしれないからという理由で、妙蓮寺に戻り、終戦を迎えた。

そんな父は、この街でその後、高校を卒業して働きに出るまでの約20年間を過ごした。末っ子であった父は、9つ離れた兄と6つ離れた姉(つまり私にとって伯父と伯母)が結婚してこの街を離れると、母(つまり私にとって祖母)と一緒に、杉田にある兄の家に居候する。そして、その後鎌倉の二階堂に移り住み、結婚。私が生まれたわけだ。

父たちが離れた後のこの街には、親戚がいたわけではないので、その後は父もそして私もこの街を訪れたことがなかった。すぐ隣の菊名駅は高校時代に共に陸上部で汗を流した仲間がいて、何度も降り立ったというのに。

ただ、昭和21年(1946年)に設立され、恐らく神奈川県で最も古い歴史を持つであろう少年野球チーム「富士塚レディアンツ」の一員であった父は、このチームを通じて、たくさんの交友がこの街にはあったようだ。

というわけで、まもなく81歳になる父を連れて、この機会にこの街を訪れてみることにした。父にとっては約60年ぶりの帰郷となる。

横須賀線で横浜駅まで出て、地下に潜って東横線各駅停車に乗り込む。「石神井公園行」の表示に戸惑いと時代を感じつつ、あっという間に妙蓮寺駅に到着。

電車から降りると早速、父はホームから外を眺めて、「昔あそこに郵便局があって、終戦直後にGI(進駐軍)からチョコレートかなんかをもらった」と75年前の記憶を語り出す。

妙蓮寺の門を背に通りを往く。「この角の店は駄菓子屋で、子供の頃よく買って食べた。お~、バーバー・トニーだ、まだあったか!ここでずっと髪を切ってもらっていた。あ~、はなや薬局だ。ここのおかみさんには『とっけ、とっけ』と言ってずい分と可愛がってもらったんだ。その隣に交番があるだろ?あそこのお巡りさんに内緒でピストルを触らせてもらったんだよ」。「とっけ」とは父の幼少の頃からの呼び名である。

矢継ぎ早に思い出を語る父。足取りは軽い。

何の気なしに車でも運転していたら、まったく気にもかけず通り過ぎるであろうこの場所に凝縮されている父の記憶。

想像するのはセピア色の光景。

上り坂が二手に分かれる。「両方の道から行けるけど、いつもこっちの道を行くんだ」と細い方の道を上る。なかなか味わい深い道だ。だんだんとこの街が好きになっていく。

「ああ、この〇〇さんはレディアンツのメンバー、この〇〇さんの家からはよくトランペットの音がよく聴こえてきていたんだ。ああ、この家はお医者さんだったはずだ、兄貴に頼まれてよく喘息の薬をもらいにきたよ」。

想像するのはセピア色の情景。

父たちがかつて暮らした場所は、篠原と富士塚という町名の境界となっている道沿いだった。日に照らされた静かな住宅街に佇む昭和の記憶。

そして、あまりにも変わってしまった風景に、一度少し通り過ぎてしまったが、ようやく父たちが暮らした場所を見つけることができた。
家々に囲まれたこの場所も、昔は目の前は全て松林で、周囲は畑が広がっていたらしい。

その畑を突っ切った先には八幡神社があり、夏の夜にはレディアンツのメンバーがお化けの格好をして、地元の人たちで肝試し大会をしたとか。その神社に向かう途中には、家と家に挟まれるように「塚」が今でも残っていた。富士塚の町名の由来であろうか。

篠原八幡神社で一休みしたら、坂を下り菊名池公園へ。父が子供の頃ここらへん一体は大きな池で、貸しボート屋もあってよく釣りをした。今や池は埋め立てられて、車道を挟んで公園とプールが存在している。

1時間半強にわたる記憶の散策。妙蓮寺、篠原、富士塚とこれまで訪問することのなかった街に対して、一気に愛着と郷愁を覚えるという、実に不思議な時間であった。坂が多くてくたびれもしたが。

帰り道は、父が小学校の途中から高校卒業まで通ったセントジョセフインターナショナルスクール(通称:センジョ)へ。当時の往き方を再現すべく、
東横線桜木町駅はもう存在しないので、みなとみらい線で日本大通り駅まで行き下車。横浜市営バス20系統に乗って、北方小学校前まで。今や巨大なマンションが建つ私も1年半だけ通った父の母校跡地を横目に、カトリック山手教会で休憩を兼ねてお祈りを少しばかり。フェリス女学院横の階段を下って石川町駅近くの川沿いのカフェでビールとランチ。

最後は、元町からバスで根岸台を巡り、JR根岸駅から京浜東北線に乗って帰路に就いた。大船駅前のミスタードーナツで家族にお土産を買って帰ったら、その日の全工程は終了。

あの街の大人たち、友達、レディアンツのチームメイト、そして家族に愛されて幼少から青春時代を過ごした私の知らない父。その記憶を垣間見て、少しばかり追体験ができた。

当時まだ単線だった国鉄横浜線の線路に耳を当てて、レールの響きに耳を澄ます少年時代の父。

想像するのはセピア色の風景。




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