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うどんとコントラバス

コツコツ努力する、ということが苦手なせいか、私は楽器が弾けない。

子どもの頃、親にムリをいってエレクトーンを習いに行ったことがあるが、何度かレッスンに通った後、ほとんど弾けないままやめてしまった。

そのくせ、音楽を聞くのは好きだ。決して詳しくはないが、民放ラジオから流れてくる流行りのポップスも聞くし、NHKのラジオから流れてくるクラシック音楽もなんとなく聞いている。ジャズは時折、ライブハウスや音楽ホールに聞きに行く程度に好きな音楽である。

そのせいか、街の中で楽器を背負っている人を見ると、目で追ってしまう。

ある週末に電車に乗っていたら、白髪交じりの頭にひげを生やした60代と思しき男性が、ギターらしきものを背負って同じ車両に乗り込んできた。ギターらしきもの、というのは、ベースかもしれないからだ。明らかにウクレレではない大きさのそれは、楽器ケースに包まれて、おじさまの背中にいる。

おじさまは白いワイヤレスイヤホンをつけていて、とてもゴキゲンなように見えた。今にも鼻歌が聞こえてきそうだ。そして、ゴキゲンなまま下北沢で電車を降りた。これからどこかで楽器の練習をするのかもしれない。

別の日には、ピンク色の大きなハートが描かれたオフ白のTシャツを着た、もじゃもじゃパーマ髪の20代と思しき男性が、電車の扉の横に立っていた。その若者は音符が描かれたバッグを持ち、長さ1メートルくらいの細長い物体をキャスターに積んで運んでいた。

あれはきっと、キーボードだと思う。ひょっとすると音符のバッグには、楽譜が入っているんじゃないだろうか。楽譜はジャズかな?ロックかな?意外にもクラシック?もしかするとオリジナル曲だったりして……。

楽器を持っている人を見ると、つい、いろいろ想像してしまう。

それにしてもなぜ、楽器を持ち運ぶカバーというのは、黒が圧倒的に多いのだろう?

先日も、黒いカバーをかけた大きな楽器と思しきものが「動いている」のを見た。

楽器が自らで動くわけはないので、持ち主が運んでいるわけだが、私の目には「楽器が動いている」ように見えた。

なぜなら、その楽器はとても大きくて、持ち主が小さかったからである。

その大きさから察するに、それはコントラバスであった。

コントラバス(だと思う)を運んでいるのは小柄な女性だった。東京という街は不思議なところで、女性がコントラバスを運ぶ姿を、電車のホームなどで時々見かけたりする。

しかしその日、私が「コントラバス女子」を見たのは、とある駅の地下にある飲食店街だったのである。その飲食店街は、イマドキの駅の地下とは違って天井が低く、通路も狭い。しかも、お昼どきという混み合う時間帯であった。

狭い通路を、人混みにまぎれて動く、コントラバス。

私はそのコントラバスを目で追いながら、しばらく同じ方向へ進んだ。

そして偶然にも、そのコントラバスは、私が行こうと思っていたうどん屋の前で止まったのである。

そのうどん屋は、席に座ってから店員が注文をとりにくるタイプの店ではないし、食券を買うタイプの店でもない。店の入口でカウンター越しの店員に注文し、トレイを持ってうどんを受け取り、会計を済ませてから席につくという、いわばセルフサービスのうどん屋である。さらに、そういううどん屋だけに、店内も狭い。

コントラバスを持ったまま、どうやってうどんを受け取るのだろう?それに、狭い店内のどこにコントラバスを置く?

もともとそのうどん屋へ行こうと思っていた上に、コントラバスへの好奇心も手伝って、私はうどん屋に入ってからも大きな楽器を目で追い続けた。自分が食べるメニューをゆっくり選ぶ余裕がないまま、注文口へ来てしまったので、とりあえず「ぶっかけうどんの小を」と頼んだ。

私よりも先に行くコントラバスは、一体どうなったのか。

持ち主はまず、店の入口付近にコントラバスを立てかけた。そのうどん屋では、入口付近が最も広いからだと思う。

この時点で、私はヒヤヒヤした。

コントラバスは安いものでも数十万円、高いものなら数百万円はするという、高価なものである。倒れたらどうするんだろう、盗まれたらどうするんだろう……。

しかし、彼女はコントラバスを立てかけたまま、うどんを注文し、うどんを受け取り、会計を済ませて、店の奥にある席を確保した。

そしてその間中、コントラバスをチラチラと振り返り、ほとんど目を離さなかった。

店の奥の席を確保した彼女は、コントラバスを立てかけた入口付近へ戻ってくると、店内の通路にいる客たちに「すみません、すみません……」と声をかけながら、コントラバスを自分の席の横まで運んだ。

彼女の席は店の一番奥で、席の横はちょうど角になっていた。コントラバスは、そこにしっかりとおさまった。

コントラバスを自分の席へ迎え入れた彼女は、うどんを食べる前、店員に向かって「ありがとうございました」と笑顔で礼を言っていた。

その様子はまるで、ベビーカーに乗せた小さい子どもを店の入口で待たせておいて、奥の席を確保してから迎えに来る、母親のようであった。

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