小説「イチブとゼンブ」⑤
ー大崎弘也ー
6月。頬を一滴の汗が流れていくのを感じながら、俺は剣道場へ向かっていた。
土曜日の学校は部活をする生徒たちの声がするだけで、他に人気はなかった。
「おーい、弘也ー!」
「お!直哉!」
グラウンドのそばを通るとき、同じクラスの友人が声をかけてきた。
「陸上部の練習かー?」
「そうだよ!弘也は剣道の練習か?」
「もち!」
「お前、元気過ぎて声枯らしたりしてないかー?」
友人の直哉は、眉を上げ、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。
「るせー!大丈夫だよ!いっつも叫んでんだからな!」
「そういやそうだな〜」
右腕を上げ、威嚇するジェスチャーをして見せる。
直哉はケタケタと笑い声を上げると、こちらに向かって手を上げ、練習に戻っていった。
直哉の背中を見送り、俺は剣道場へと向かった。
カギを回してドアを解錠をする。ガチャリという音が、辺りに響く。
中に入る前に一礼をし、更衣室へと向かった。
今日は誰もいない。練習が無い日なのだ。
俺は小学6年生の頃から剣道をしているが、こうしてオフの日に剣道場に忍び込むようになったのは、中学2年の頃からだった。
大した理由は無い。ただ、人のいない静寂の中で1人運び足の練習をするのが好きなのだ。
運び足は、剣道の移動方法で、足を摺るようにして移動する。
地味だが重要なスキルなので、練習して損はないはずだと思っている。
防具を身につけ、さっそく練習を開始する。
窓を開けているため、外から鳥の囀りと、微かな部活動のかけ声が聞こえる。
俺はそれらの音に耳をそばだてながら、慎重に運び足をしていった。
前、横、後ろ、また前。
こうしていると、不思議に気分が落ち着いていく。身体が心地よい涼しさに包まれていくのを感じる。
と、入り口でガタッと音がした。
水に打たれたように音のした方向を見やると、3年生の中野先輩がそこに立っていた。
白い顔の中の大きく見開かれた目が、こちらを見ている。
「あ…、中野先輩。こんちわっす」
「こんちわって…。大崎、なんでここに居るんだ?」
俺は一瞬どう言ったものか迷ったが、正直に説明した。
「ふーん…」
中野先輩は納得がいかない様子だったが、何も言わずに中に入ってきた。
「中野先輩は、何か用ですか?」
「いや、忘れ物してな。水筒、水筒…っと」
「水筒ですか。確かにこの暑さだと、心配になりますよね」
「あぁ。…と、あった。」
中野先輩は、壁際に置かれていた水筒を手に取ると、クルッとこっちを向いた。
「お前も、あんまり勝手なことするなよ?元木とかが見つけたら、普通に注意されるぞ」
「はい、すんません」
俺はペコっと頭を下げる。もちろん平謝りではある。
中野先輩が出ていくと、再び運び足の練習を始めた。
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