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占いハイブリッド・ババアの説得力

 占いを、どこかで信じている。
 そういうぼくがいないでもない。
 会社に新卒入社する直前のことだ。話のネタにでもなるだろうとおもって、だいぶむかしに占い屋にいったことがある。
 相談1つまで、時間は20分で3000円という値段だった。やるかやらないか非常に迷ったところは、まわりが女性客ばかりというよりもここで、よくわからないババアによくわからない論理でもってよくわからない説教をうけるのにどうして3000円も払わなくちゃならないのか、というためらいがあったからだった。当時はちょっとした占いブームみたいなのがテレビでもあって、芸人から占い師になったひととか、新宿の母とか、そういうひとをよくみた。数分間の逡巡を経て、まあ3000円か、とおもいいたって占い券を買った。

未来予測について

 物理学のだいたいの目的というのは、すべての時間を見通すことにある。いつどこでなにが起こるか、そういうものを予測するために、重要な方程式には時間や位置のパラメータが配置されているのだろう。
 すくなくとも、古典力学の範疇ではそういう意図のようなものはみられるし、有名な思考実験に「ラプラスの悪魔(≠ラブプラスの悪魔)」というものがあって、古典力学の膨大な演算によりすべての過去と未来が確定するという決定論的といわれる立場だってあった。現代物理では量子力学の台頭もあって確率論的(あるいは統計的)な議論が優勢となっているけれど、確率や統計の考え方が採用されているのは詳細を厳密に議論しきれないことへの措置としての対応かもしれないし、そこについてなにをどうおもうかについてはいまはどうでもいい。ともあれ、決定論的な知見というのがまだまだ捨てきれないような気がしないでもない。
 占いといえど、その流派はいろいろあるみたいで、霊感占いやら六星占術やら手相やら姓名判断やら、あげだせばキリがない。しかし六星占術とか手相とか姓名判断とかの学術的な体系のようなものが「とりあえず」つくられているものは、どうやら統計的な立場をとるという。こうこうこういうパターンの方はこういう人生の傾向にありました、みたいな立場でひとの人生を読み取り、それを占い師が解釈してアドバイスをおこなう。
 それに対して霊感占いは決定論的な立場におもえる。
「お前の後ろにじいさんがいる」などといわれれば、それをとりあえず「はあそうですか」と信じる信じないにかかわらず、いったん飲み込まなくては話がすすまない。それから、
「お前のじいさんはこうこうこんなことをいっている」
 と断言してくるわけだけど、じいさんがみえない以上「はあそうですか」というよりしかたがない。うさんくさいことこの上ないけれど、断言されると弱気になってしまう。すくなくともぼくはそうだ。

占われる

 ぼくを占ってくれたババアは「学術的な方法」と「霊感的な方法」のふたつを利用した方法を採用していた。すなわち占いにおいてハイブリッド・ババアである。
 さいしょに名前と生年月日、可能であれば生まれた時刻を紙に書くように促される。時刻は知らなかったので書かなかった。書いた紙をハイブリッド・ババアにわたすと、彼女はくったくたの本を開き、なにやら計算をはじめる。ここまで3分くらいだ。
 そのあと満足げな笑みを浮かべ、かたわらにおいてあった水晶を左右に2回、前後に2回、メガネ拭きみたいな布で拭いてから、両手で覆うようなザ☆占い師的なポーズをとり、目をつむり、眉間に皺をよせる。およそ30秒して、ハイブリッド・ババアは目を開けて、こわばった身体を緩めるのだった。
「で、なにを占えばいい?」
「あー、じゃあ、文章で仕事したいんですけど、それについての運勢をお願いします」
「文章……」ハイブリッド・ババアはしばし沈黙してから口を開く。「それはどういう?」
「小説とか、文芸批評ですね」
 するとババアはいう。
「あなたはご先祖さんがちゃんとしてるから、路頭に迷うことはない。実家もあるし、長男だし、土地もある。そこに関しては安心しなさい」
 ぼくはおどろいた。ぼくがババアに教えたぼくの情報は名前と生年月日と、文筆業をしたいということだった。田舎の長男だなんてひとこともいってなかった。
「見た目が田舎の長男っぽい」という形容が世の中にないわけではないのだけれど、それは神戸の繁華街ではおそらく使われることはないだろう。それに、そういうあてずっぽうを金銭のやりとりのある占いのなかでいうにはあまりにも危険なハッタリだ。
 このババアは百戦錬磨のギャンブル狂か、ぼくのしらないなにかを知るひとにおもえ、たちまちうろたえてしまった。
「で、文筆業のことだけど」
「はい」
「純文学では厳しいとおもうわ」
「というと」
「芸術色が強い職につくには、あなたは論理的過ぎるし、そういう感性が備わってない」
 正直、ちょっと気にしていることだったけれど、これは占い師のテクニックにもおもえた。すなわち、「だれにでも当てはまる回答を投げる」というアレだ。
 この場合であれば、純文学作家として生計を立てることがいかに難しいかは知っているひとは知っている話だし、芸術的な感性に自信を持っているとじぶんでおもっているひとなんてそうはいない。また、ぼくのことを「論理的」といったのは、おそらく男性客にはそういう客がおおいからだろう。すなわち、占いという科学的な根拠がはっきりしないものに対していくらか批判的におもっている連中だ。
 ただ、ぼくはといえばさっきの「田舎の長男」がやたらひっかかっている。頭では占い師のテクニックだとわかりつつも、一番最初の「わかりえないこと」をつかれたことで、目の前のババアの話をどこか信用しはじめていた。時間は10分を過ぎていた。ババアのペースで話は進んでいく。
「文章を書くなら、ミステリかノンフィクションのほうが相性はいい。これなら5年以内に生計はたてられるはずよ」
「う〜ん」ぼくはいった。「成功したいから文章を書きたい、というのはちょっとちがうんですよね」
「というと?」
「ぼく自身で確信している表現みたいなのがあって、それをやり続けるためにはお金がいる。さっきおっしゃった純文学的なものがそれになるんですけど、それでお金もらうって、やっぱぼくにはむずかしいんですかね?」
 ババアは閉口した。また水晶にむかってザ☆占い師のポーズをキメて、それから身体の緊張をほどいた。それからこんどは(やはりクタクタの)タロット・カードをとりだし、わずかに個室に潜り込んでくる隣室の意味をなさない話し声にもかき消されてしまうほどの小声でなにかをぶつぶついいながら、乱暴な手つきで机のうえにひたすらカードを叩きつけた。隠者が正位置、吊るされた男が逆位置、塔が逆位置、死神が正位置、月が逆位置、太陽が正位置で現れたところでババアは手を止めた。
「まあ、50歳を過ぎた頃かな」
「50歳……!」
 ぼくは安堵した。ひとまず、このババアのことを信用するなら50歳頃には成果が出るというのはちょっとした希望だった。
「まあ、あなたはまずもっと本を読んで、音楽を聴いて、美術館にでもいって感性を高める必要があるけれど」
 そこで時間がきた。

まとめ

 ぼくの占い体験の話はこれでおしまい。
 もちろん、ハイブリッド・ババアのいうことを完全に信じたわけじゃないし、できるなら50よりはやく、できるだけはやく信じた文章でお金をもらえるようになりたいというのが本音だ。
 あれからけっこう経ったけれど、ぼくはミステリもノンフィクションも書く気はない。ババアの忠告にさからって、なにも仕事として残せないまま田舎で農家をやる可能性だってあるだろう。未来というものは、できるだけみたくない。
 帰り際にババアは
「運命は変えられるからがんばりなさいよ」
 といったのだけれど、占い師がそれをいっては元も子もなかろう、とおもった。ただ、このままじゃまずいみたいな危機感みたいなのはババアのおかげで強くなった、ということは否定しない。よくわからないロジックがはたらくよくわからない空間だからこそ、よくわからない説得力が生まれたこの経験について、ちょっとした小話になれば3000円の元はとれたとおもっている。まだババアが占い師をやっているかはわからないけれど、同様のババアは大量に世界中にいるわけで、きょうもいたるところで謎の計算をし、水晶を磨き、タロット・カードを叩きつけているのだろう。

 あと、筆名を決めるときとか、息子に名前をつけるときとか、やたら姓名判断やらなにやらをネットでやりまくったことを追加しておく。
 依然として占いを信じたわけじゃないけれど、縁起の良し悪しはそういう問題じゃないし、良いにこしたことはない。ぼくの本名は姓名判断的に最悪なのだけれど、こんなデタラメな経歴でなにも身になっていない人生について、ちょっとぐらいは運勢のせいにしたいときだってある。会社に勤めはじめた当初のぼくにことばをかけるなら「適当でいいぞ」といったところか。正義も悪も、正しさもまちがいも、適当に都合のいいものだけとりあえず軽く信じておけばいい。手を動かして、ひとつでも多くものを作ることが大切で、書き続けたいなら書くことをやめないようにすればよい。文章は読み手も書き手もある意味で全員バカな世界で、だれもがまちがった正しさを主張しながら正しくまちがっている。そんなものに一喜一憂するのは暇なやつにまかせておけばいい。

 結婚するとき、妻が印鑑を3本つくってくれて、そのときにぼくの姓名判断をしたらしい。案の定、印鑑屋さんや妻や義母がドン引きしたらしいのだけど、「結婚後に運気があがる」とのことだったようだ。こういうことは信じるようにはしている。そしてそれはいまのところ当たっている。

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