見出し画像

【エッセイ】謎のおとっつぁん。

 よぉっ。
 迷うことなく手を挙げ、おそらく彼はそう言うっていたはずだ。聞こえはしないが、口ぶりは間違いなくそれである。そして、彼は笑顔だ。明るい、良い笑顔だ。
 カーブを曲がり、住宅地に入ったばかりの僕は速度を緩めている、躊躇のない彼とは真逆に、僕はおずおずと手を挙げる。
 どーも。彼は玄関口、僕は車内。聞こえはしないが、一応、返答が必要な気にはなる。

 午後540分頃。
 いつもと変わらない帰宅時。自宅まであとわずか。幹線から住宅地へと入った、そのすぐ先に彼は待ち構えていた。
 70歳前後と思しき初老の男は、いつも、僕を出迎えるように、おそらくは彼の自宅前にて腰に手をあて、堂々たる態度でもって周囲を見渡している。
 薄くなった頭髪、出っ張った腹。逞しい二の腕は畑仕事でもしているのだろうか、とくに変哲のない田舎のおっさんという風貌である。タンクトップ……というより、ランニングシャツというべきか、汗で透けているが気にするふうでもない。その姿が通報の条件にならないのはさすがの田舎道なのかもしれない。

 面識はない。自宅近くではあるが、近所というほど近所でもない。地区としては隣かその隣かというところである(抜け道に使っているだけなので住所は知らない)
 しかし、帰宅中の僕を待っているかのように、そして旧知の仲であるかのように、彼は笑顔にて手を挙げるのだ、礼をするわけでもなく、こんばんは、でもなく。
 あくまでその仕草に似合うのは「よっ」なのである。今日もやはり笑顔だ、親しみさえ憶える笑顔だ。
……面識、ありませんけど。
 やはりぼくはおずおずと手を挙げ、彼を通り過ぎてゆく。バックミラーのなかの彼が僕の車を視線で追っているのがわかる。

 いつも思う。
「誰なんだ?」と。
 連日のことである。日々、彼の出迎えを受けて帰るのである。
 僕は思う。
「誰やねん?」と。
 わからないまま、今日も明日も僕は彼に手を挙げ続けるんだろう。
 いったい、彼が何処の誰なのか、わからないまま。同時に、彼もやはり僕のことを知らないまま。

 以前、住んでいた町での出来事です。
 現在は兵庫を遠く離れた高知で暮らしています。このお父さんがいまどうしているのかは知りませんが、元気に誰かに手を振っていてくれたらと切に願います。


photograph and words by billy.

サポートしてみようかな、なんて、思ってくださった方は是非。 これからも面白いものを作りますっ!