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はじめまして。自己紹介とこれからの未来のこと。

畑をしながら夫婦でレストランをやってます。
写真右側が私です。

今回は、これまで私がどんなことをして、どんな未来を描いているのかをお伝えしようと思います。


はじめまして!三和靖子(ミツワヤスコ)です。
私は1986年生まれで山口県山口市のド田舎で育ちました。

では、今の活動からご紹介していきたいと思います!

テーマは「心も身体も喜ぶ食のある暮らし」

すべての人が毎日の暮らしにワクワクしている社会をめざして

生き物すべての多様性を生かして持続可能な自由な生き方を提案します。

野菜やハーブを育てたり、古い家をリノベーションしたりしながら
畑の中のレストラン「mitsuwa」をやっています。

暮らしに必要なことは心も身体も喜ぶこと。
どちらも欠かせることができない大切な事なんです。
心の喜びとは
安心して過ごせる仲間がいること。
高め合い団結して夢に前進できること。
身体の喜びとは
自由に過ごせる自然があること。
安心安全な食事があること。
持続可能な生活であること。

現代社会では、毎日忙しくストレスが溜まったり
無理して頑張りすぎたり、我慢することが当たり前になっている。
そんなことをするために生きているんじゃない!
もっと自由に、もっと自分を大切に、世の中すべての人が持続可能な暮らしをして欲しいと願っています。

と、そんな私自身も、違和感をうまく伝えられない人でした。
え?これおかしくない?と思いつつも
伝え方が下手で、もがき続けて
ようやく自分の想いを表現できるようになりました。

自分の暮らしは自分でしかつくることができません。
「より心地よく暮らしを提案する存在」として
ワークショップやレストラン、出張料理、イベントで食をつくる

コミュニティーで古民家をリノベーションして住まいをつくる
そんな活動をしています。

いろんなお仕事をしているので、この人は何なんだ?
と、思いますよね。
今回はどんな流れで今の活動にたどり着いたかこれまでを振り返ってお話したいと思います。

幼少期|自然と暮らす。コンプレックスの古い家。

生まれたのはド田舎!
両親は美術品販売をする自営業。
父が尺八の師範であり製造もしていて
元建築系の仕事だったので、なんでも手作りする人でした。
家の柱についている父のお手製のブランコがお気に入りで毎日乗っていました。
母は兼業農家なので、畑にいる事が多く、私もよく畑で遊んだ!ほぼ畑で遊んで育ちました。
花の蜜をすったり花かんむりを作ったり、のどかずぎるほど自然に囲まれてました。

好奇心旺盛で我慢ができない性格なため
「嫌なことは嫌!」とはっきり言っちゃいます。
なので、気が強いと先生にもよく怒られたし、友達も少なかったな〜。
父も母も全く褒めない人だったので、自分に自信が全くありませんでした。
10歳で妹が生まれ、ようやく相手の気持ちを考えたりを考えるようになり、心が少し穏やかになった気がします。

私の家は先祖代々が住んでいた築100年の古民家。
友人の家は綺麗な家なのに私の家だけ、古くて暗い印象ですごく嫌だった。特にトイレは和式のくみ取り式のポットン便所なことが特に嫌で...
友達が遊びに来たときに「トイレ貸して」なんて言われたら血の気が引くほど嫌でしたね。

「おてんば娘」とよく言われた
妹のために焼いたクッキー
料理が好きになったきっかけ。

高校〜専門学校|料理の道へ

高校になると「都会で暮らしたい」
と、いう思いが強くなりました。
裕福な家庭ではなかったので、
お金を貯めることにしました。
総菜屋、寿司屋、割烹料理など
3つのバイトを掛け持ちました。

中でも、スーパーの総菜屋は
オープニングスタッフで入ったので
何でも任せてくれて一番楽しかった!
自分で新商品を考えて、商品化して
値付けまでしてやりたい放題任せてもらってました。自分でオリジナル弁当や惣菜を考えて、クリスマスにはオードブルとか考えて売っていました。この時に、売れるものと売れないものが分かるようになり、商品開発の楽しさを身につけました。
今思えば、高校生で商品開発させてもらえたのは貴重な体験です。
自分の商品が完売したときは嬉しかったな〜。
料理は楽しくて何時間でも楽しく働けました。

学校以外はほとんどバイトをしていたので
服や雑貨を好きなだけ買いつつも
都会で暮らすためのお金は順調に貯まりました。

高3になった頃、都会といってもどこに住もう?と思い始め、、、
夏休みに一人旅に出ること決意。
親には内緒で!(絶対反対されると思って)
その時は1週間ほど関西(大阪、神戸、京都)の料理や栄養士の学校を一通り見学しました。

ある朝、突然「ちょっと大阪行ってくる」と
母に告げて「え???」と、言われつつ
家を飛び出したのを覚えています!
引き止められるー!とドキドキ焦りましたね。
その旅では、何もかも新鮮!
不安より楽しいが完全に上回っていました。
そして、大阪の料理学校に進学することを決めました。

辻調理師専門学校に入学して、今の夫・慎吾さんと出会います。
大阪育ちの夫の第一印象は
超ゆる〜っとした感じ。

覚悟を決めて山口から出た私は
「誰にも負けたくない。すごい料理人になってやる!」とギラギラしてましたね。
なんとも対照的な二人でしたが
いつしか付き合うようになりました。
学校もバイトもしながら、寝る間を惜しんで友達とも遊んでいました。とにかく全力少女!

専門学校時代。夫・慎吾さんと出会う。

20代前半|育児と仕事で疲弊

ホテルオークラ神戸の宴会料理で就職。
その後、1年たたず妊娠が発覚。
料理も続けたいから迷ったけど、、、
産むことを決意!
19歳で結婚、出産を経験しました。
そして、24歳までに3人の子供を授かりました。

私はどうしてももう一度料理をやりたくて
2人目を産んで保育園に通わせることにしました。
レストランやパン屋でパートで働きました。
ですが、夫も料理人で忙しくほとんど家に居ません。
3人目の息子を産んだ後は特に大変でした。
移動手段は自転車だけだったので
「保育園までどうやって3人を送迎するの?」
と、困り果てましたね。
自転車に子供3人(5歳、3歳、0歳)と私で4人乗り?!さらに、お着替えやお布団とかあるって無理じゃない?!
自転車を諦めてリアカーにしようか真剣に悩みました。手も足も出ないお手上げ状態だった。だけど、どうしても働きたいのです。

そしたら、、、
いつもお世話になってる近所のおじいちゃんが
0歳の息子を「送迎してあげるよ」と、
言ってくれたのです!

同じ保育園に入れずに、2カ所の保育園に分かれて通うことになってたのでとっても助かりました。
保育園の先生に最初は驚かれましたが
毎日毎日近所のおじちゃんは保育園に
通ってさらに、帰りには駄菓子屋まで連れてってくれていたのです。感謝しかない!
仕事が終わって0歳の息子を迎えに行くと
おじちゃんと真剣に相撲を観戦していました!

さらに、お隣のご夫婦も可愛がってくれて
お風呂に入れてもらったり散歩に連れて行ってもらったり、たくさん面倒をみてもらいました。

という感じで、末っ子の面倒はほとんど近所の方がやってくれました。息子もすっかり懐いてて本当に助かりましたね。
「遠くの親戚より近くの他人」ということわざ通りです。

とはいえ、3人の育児×仕事×家事は忙しい!
私たち夫婦は完全に疲れ果てていました。

そんな時、あるテレビに出ていた田舎の小さなレストランに猛烈に惹かれたのです。
もっとゆっくり人間らしく暮らしたい。
自由な時間や場所が欲しい。
自然溢れる場所で料理がしたい!
と、2人で田舎移住を夢見るきっかけになりました。

24歳で3児の母になる

20代後半 | 家族の解散

田舎移住に向けて、物件を探しましたがなかなか良い物件に出会えませんでした。
私が育児と仕事の両立に悪戦苦闘している中、
夫も仕事のハードワークで壊れてしまいました。

夫は3ヶ月休みなしで睡眠時間は4〜5時間という生活だったので心配していたのですが、仕事を抜け出せずいたのです。
このままだったら死んでしまう。と思うくらい疲弊していました。
そんな時に「ホントは何がしたい?」と聞いてみると、フランスで料理修行と田舎でレストランしたいと、言ったのです。

だったら、
レストラン始めたらまとめて休むのは難しいかもしれない。
だから、先にフランスに行っておいで!
と、言って2人でフランス行きを決めました。

調べてみると結構資金が必要でした!
今までレストラン開業のため貯金していた200万では足りそうになくて、子供の学資保険を解約して分けました。

ワーキングホリデーで1年間と決めて
私と子供3人は実家で待って
夫単身でフランス修行へ向かうことに。

ほんとは一緒に行きたかったし、別々で暮らすのは寂しかった。
子供たちも寂しがるんじゃないかと不安でした。
だけど、このまま夫が仕事を続けて、過労死でもするくらいなら、絶対にこっちの方が良い!!
と、信じました。
我慢して働くより自由に挑戦してほしかったのです。
だけど、出発前夜は涙が止まらず、寝られませんでした。
出発の朝、ご近所の方にお見送りしてもらい
慎吾さんは空港へ、私は子供3人を連れて実家へ
家族は一時解散したのです。

30代前半|開業資金0円でもレストランやりたい

慎吾さんも無事帰国して、私の実家である山口県で再び家族の暮らしはスタート。
さて、次はレストランを始めたいのですが、もう貯金は全くありません。
海外暮らしをしていた夫に、銀行がお金を貸してくれるわけもありません。

そんな時、私の幼少期に住んでいた古民家が空き家になっていました。
古民家鑑定士さんにみてもらうと
「レストランにできる素敵な物件!」
と、言ってもらえました。
子供の頃は怖くて暗いイメージがあったのでレストランを作るなんて想像ができません。

絶対オシャレにしないと!とワクワクと不安が入り混じりますが、ともかく資金がないのです!!

どうにか早くレストランができないか?
と、自分たちだけでリノベーションを始めたのです。やると決めたら、もうじっとしていられないのです。

とりあえず、残置物の処理から解体など、電気と水道工事以外は調べながら少しずつ作業を進めました。

そんなこんな、地元の方にも100名以上お手伝いいただいて、2年間かけてレストランが完成したのです。

地元のおじさまたち

農業も始めて、今では年間100種類ほどの野菜やハーブを育てています。
安心して食べられる食材で、身体に優しい食事を提供しています。

畑の野菜やハーブをレストランで使う

これからの未来は

ここまでを振り返っても、信じられないくらいほんとにたくさんの方に支えられました。
この自然豊かな場所でレストランを開くことは
みんなの協力があったからこそ出来たのです。
支えてくれた方に感謝です。

都会で夫婦共に料理をしながら
育児×仕事×家事
に追われて疲弊した私たちだからこそ
自然からパワーをもらい自由にワクワク暮らすことが何より大切だと思ってます。

これからのmitsuwaの挑戦は
人類すべての人が自由に生きて、持続可能に暮らせる村をつくります。

レストラン、ショップ、加工品、農園
動物、庭、体験、その他...

※太字はすでにスタートしていること。

これから何年もかけて
みんながワクワク暮らせる村を作り上げたいとおもいます。
そして、自然豊かな場所で自由にワクワク暮らしがしたい方は、村人として一緒に村づくりに参加しませんか?

🔽村づくりの様子はYouTubeで発信します


最後まで読んでいただきありがとうございます!


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