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諦めるという選択

諦めないということは確かに立派なことだと思う。
何かに向けて努力していくその姿勢は、素直に尊敬するしすばらしいことなのだろう。
わたしにも諦めずにチャレンジしたという経験はあるし、それで手にしたものはある。達成感を味わうことができ、満足感も得られた。
当然、手が届かなかったものもある。
その時、わたしはどうしてきただろうか、どうすべきだったのかとふと思った。

目指す何かに手が届かなかった時、得られなかった時に周りからよく言われるのが「諦めないで」という言葉である。
諦めずに努力すれば報われる時が来るよ。
諦めたら後悔するよ。応援するからがんばって。
そうかもしれない。
希望を捨てずに手を伸ばし続ければ、もしかしたらこの手に何かを掴めるのかもしれない。
それでも、前を向いて手を伸ばし続けることが大切だとわかっていても、「諦める」しかないことがあるのだ。

諦める、という選択を安易な逃げだという人もいるだろう。そんなに簡単に「諦められる」ものだったのかと問われることもあった。
しかし、わたしにとってはそうではない。
諦めるということには、常に痛みが伴うのである。

希望や夢や目標や、そういったものに手を伸ばして努力するだけではどうにもできないことがある。
自分の能力不足かもしれないし、自分を取り巻く環境がそうさせてくれないのかもしれない。
とにかく自分の意志でどうにもできないことというのは本当にたくさんあって、どれだけ手に入れたいと望んでも手に入れられないことがあるのだ。

学生の時の話である。
大切なひとが統合失調症にかかった時に、わたしが支えていくのだと心に誓った。通院の付き添いから入院のサポート、退院後のケアまでひとりでやっていた。
ふたりで何とか生きていくことを、諦めたくなかったのだ。わたしががんばりさえすれば、彼にも病気とつき合いながら生きていく道が開けることを信じていたからその未来に望みを託したのだ。
しかしわたしがうつ病を発症してしまい、彼とは距離を置くしかなかった。主治医いわく、それ以上わたしが彼を支えようとすれば、わたしが潰れるということだった。
必死で握っていた彼の手を離すしかないのだ。
それは安易なことではなかったし、簡単に決められることでもなかった。
できることなら諦めたくはなかった。
でも、血を吹くような思いでふたりの未来を手放さざるを得なかったのだ。
彼のいない生活に慣れるのは容易ではなかったが、慣れるための努力をした。同じ時間を過ごすことを手放したのだから、それは仕方のないことだった。
そうしてひとつ、大事なものを諦めた。

そんな時にわたしにもたらされたのは、彼が事故で亡くなったという知らせだった。後でわかったことだが、自らいのちを絶ったのだった。
彼の病気のことは誰にも知らせていなかったので、わたしと彼の関係が終わっていることを知っているのはふたりの家族だけだった。
わたしには「彼女」として最後のお別れをしてあげないとだめだよ、という言葉がかけられた。
どうしろというのだ。彼の家族のことを思うと、わたしが顔を出すなんてできないことなのだ。途中で手を離した人間なのだから。
お通夜も告別式も行かないことにした。きちんとお別れすることが許される立場ではない。
友人たちからどれだけ責められても、罵られても、とにかく行けなかった。行くわけにはいかなかった。
参列を諦めるしかなかったのだ。
なぜだ。なぜ病気になどなってしまったのだ。
とてもとても大切なひとだった。ふたりで生きていくことが当たり前だと思っていた。
その未来を、卒業したら一緒になろうという約束を、この手に掴むことができなかった。
こんなに大切なことを諦めなくてはいけなかった。
これが絶望というものかと思い、違うなと思い直した。そんな感情を持つことも許したくなかった。
電話線を抜き、鳴らされるチャイムを無視して、告別式の日をひとりで過ごした。

数日後。
ポストに彼からの遺書が入っていた。
わたしを責める言葉がひとつも入っていない、逆に感謝の言葉が綴られているそれを読み終えた時に、わたしの中で何かが瓦解する音を聞いた。

誰かを好きになること。家庭を持ちたいと思うこと。
大切なひとの子どもを授かりたいと願うこと。
もう望んではいけないと思った。そんな資格はわたしにはないとも思った。
うつ病に加え、摂食障害も発症していた。これ以上何も抱えられない。人並みの生活とやらを望むことすら難しい状態だった。
一方で友人が結婚すると聞くと、わたしがあんなに望んだのに手に入れられなかったものを彼ら彼女らが手に入れたことを羨む気持ちもどこかにあった。
でも、もういい。
わたしには大きすぎるものだったのだ、元々手に入るようなものではなかったのだと言い聞かせ、諦めることにした。
しつこいようだが容易なことではなかった。簡単なことでもなかった。時間をかけ、こころを千切るような思いで少しずついろいろなものを断ち切ったのだ。

諦めるということは、希望を持たないということだ。
希望のない生活はある意味楽である。何かから解放されたような感じさえする。
夢見ることも、焦がれることも始めからしない。
ふと何かを望みそうになった時は、彼の遺書を読み返す。そうして、望みになりそうな何かを潰してゆくのだ。
そうやって、何となく生きてきてしまっている。

最近、ヒコロヒーさんの「きれはし」というエッセイを読んだ。

ヒコロヒー「きれはし」

「はじめに」はこんな文章で始まる。

『ひとつひとつを諦めきることでなんとか生きてきたふしがある。』(「きれはし」より)

ヒコロヒーさんのことを詳しく知っているわけではないが、このひともそうして諦めきらざるをえない年月を過ごしてきたのかと思うと涙が止まらなくなった。

諦めないことは立派である。
諦めるということは、逃げでも簡単なことでもない。
自分の気持ちに蓋をして、ともすれば生まれようとする希望を捨て、何も望まないことを選ぶことだ。
そうしてしか生きられない人間というのが、確かにいるのである。











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