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どうやら私も性暴力被害者らしい

ドラマ「SHUT UP」が最終回を迎えた。

自分達なりのやり方で戦い抜いた彼女達。どういう方法が正しかったのかはわからない。それでも戦うことを止めなかった彼女達の強さに勇気付けられたし、改めて性的同意や性暴力といった問題を考え直すきっかけになった。

漫画家のひうらさとる先生がドラマについて話しているVoicyが、とてもわかりやすかった。

「(性暴力被害者が)性的同意があったかどうかを問われた時、その意味すらわからずきょとんとしてしまうところが、とてもリアルだった」という先生の感想が印象的だった。

「性的同意を怠ること、相手の意思に反して性行為を強制することだけでなく、相手の同意無しに避妊具を外すこと、避妊を拒否することも性暴力に当たる」ということを、恥ずかしながらドラマを見るまで私は知らなかった。
配偶者や恋人から受けることが大半であろうこれらの行為を、信頼している相手から受けた時、ある意味では見知らぬ相手から受ける暴力より精神的苦痛と混乱が大きいのかもしれない。

ドラマを見て思い出したこと。

そういえば、私が20代前半の頃に2年程付き合っていた人と致す時、避妊具を着けた回数はどのくらいだっただろうか。

相手が年上だったこともあり、避妊具の用意は任せていた。相手が着けずに始めようとした時、拙い知識ながらにも疑問に思い、着けないの?と聞いた記憶はある。
切らしたから、持ち合わせていないから、ない方が気持ちいいから。そんな感じの理由を並べられて以来、一度でも着けたことはあっただろうか。

今でこそ、自分で用意すればよかったじゃないかとか、避妊具の必要性をしっかり話して着けさせるべきだったとか、解決策はいくらでも思い付くが、残念ながら当時の自分には知識も勇気もなかった。まぁそんなもんか、くらいにしか考えていなかったのだ。

「相手の家に着いて行ったのは自分だし」
「スカート履いて行ったし」
「笑いながらスカートを捲られた時、自分も笑ってしまったし」
ドラマ内で被害者は、自分にも非があるから、自分には相手を非難する資格がないと考えていた。しかし、「大事なのは自分の意思だ」と教えられ、意思を無視された、すなわち自分が被害者だと認識した。


では、私は?

「自分では用意しなかったし」
「揉めるのが面倒で着けるよう言わなかったし」
「受け入れてしまったし」

でも、本当は?

嫌だった。
怖かった。
生理が遅れる度不安で仕方なかった。

どうやら私は性暴力の被害に遭っていたらしい。

その人の次に付き合った彼は、毎度当たり前のように避妊具を着けてくれたし、一度だって私の許可なしに外したことはなかった。そのことに私は、こんなまともな人いるんだな、と感動したことを覚えている。
でもどちらかというと、彼が特別立派だったというよりは、当たり前のことを当たり前にできる人だったというだけだった。
それに気付くのに、今日まで長い年月がかかってしまった。

適切な対応を怠った性行為の結果、体に、精神に、人生に、ダメージを食らうのはいつだって女だ。

女性がどれだけ気を付けても、どれだけ声をあげ訴えても、男性側の意識が変わらないことには、望まない妊娠や性暴力はなくならない。完全に被害を回避できる保証はない。世界は何も変わらない。

いつまで女達は無力なままなのだろうか。

まず自分が性的同意の必要性を理解すること。
相手と意見が食い違うのであれば、納得するまで話し合うこと。

それは力では敵わない相手にできる自己防衛の第一歩だ。


すべての人間の尊厳は守られるべきものであり、誰にも奪う権利などない。
私達は人間で、賢い頭を持っている。
個人の意識を変えること。
自分の意思を大切に持つこと。
小さな一歩でも、何もしないよりは確実に前進できるはずだ。そしてそれが集まって広まって、世界が変わっていくのではないか。

果たして女達は本当に無力なままなのだろうか。

それを決めるのは、自分だ。

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