見出し画像

この映画を一緒に見たい、その人はいったい誰なのか

僕は明後日、とある友人と映画を見にいくことになっている。
その映画は以下の映画だ。

『恋人はアンバー』。
同性婚が法制化されたアイルランド。その田舎でのお話だ。
法制化された一方で、田舎ではまだ偏見や差別も残っている。そんな中で、レズビアンの女の子とゲイの男の子が「疑似的」な恋愛関係を結ぶ…というような話だ。恋人のふりをして、自分達が本当に望む関係を世間体から隠している。

この映画を見たいとは思っているけれど、それを人に話す…、さらに言えば、人を誘って「一緒に見に行きましょう」というのは結構勇気のいることだったりする実感がある。

僕(一人称は多くの場合、男性が使用する『僕』というものを使うことが多いが、身体的性別は女性だ。)は自分の性別を二分化したくないなと思っているところもあるし、性的嗜好は現在バイセクシュアルだなと自覚がある。(男性としかお付き合いしたことはないが、女性も恋愛的に好きになれるなという感覚がある。)
同時に「男女の友情」は成立してほしいなと思うし、恋愛関係でない男女が2人で出かけることを間違っていると言いたくない。恋愛が人生の全てだとは思わない。それはあまりに狭い世界を生きている、そんな気がする。

そんな僕は少しだけ、「普通」じゃないのかもしれないという引け目もある。引け目なんて感じなくてもいいと優しい人々は言ってくれるかもしれないけれど、そういうことじゃなく、僕自身が気にしてしまうっていうそういう話なのだ。

先日、休みに何をするのか、と友人達に話をしていて、映画を友人と見るよ、こんな映画だよ、と話したら、その中の一人から「え、それ見たい!一緒行ってもいい!?」と言われた。流石に本気ではないのだと思うのだが、僕はちょっと戸惑った。
他の子がその間に「カップルの邪魔しないの」と注意していて、僕と友人さんは男女の友人関係であって、カップルじゃねえけどな、というツッコミもしておいて、話はさっさと次の話題に移って行ったのですが。

その子は元々仲が良くて、僕の感覚も少しは共有させてもらっている。だから、その子とも一緒に見られるなとは思ったし、また今回とは別に一緒に見にいきたいなと思うのだけれど、今回一緒に見たいと思った人はとても大切かもしれないと唐突に思いが浮かび上がった。

セクシュアルマイノリティって言葉は便利だけれども、そんな言葉では細分化された自分自身の個別の感覚は形に出来ない。そういうのを分かってもらいたいと思う一方で、踏み込まれるのは怖いという思いもある。映画自体がそういうテーマだと、主人公達にぶつけられる悪意に自分自身が傷ついて、少し気分が悪くなってしまう可能性もあるわけで。感想も話したいけど、ほんの少し怖い可能性もあるなあと思う。
そういうのを全部鑑みたうえで、一緒に映画を見にいける人であってほしいというのが、僕にとっての理想なんだと思う。

僕が今回一緒に映画を見に行く人は、そういう配慮のうまい人だ。
僕は安心して映画を見られると思う。たぶん。
感想も話したいし、一緒に隣で映画見られるの、結構楽しみだったりする。楽しみ、ってちゃんと思えるのは嬉しい。これは一緒に見にいってくれる友人さんのおかげだ。

僕はもしかすると少し気にしすぎなのかもしれない。僕の友人たちは優しいし、フランクだ。あ、もちろんいい意味で。
だから、どの人を誘っても、別に否定されたりしないのかもしれない。何か傷つくようなことは起こらないのかもしれない。でも、どこかで何かを異常に気にしてしまう僕もこの世界にはきっといる。そして、悲観的な思考と言われるかもしれないけれど、やっぱりどこかでそういうセクシャルマイノリティのことについてよく思わない人もいるのだと思う、確実に。個人的にはそれを悲しいと思うけど、そうは思わない人もきっといる。
悲しいと、でも大丈夫と、嬉しいとが全部平等にある世界線だ。仕方ないことも沢山あるけれど、変えられることもたくさんある世界だ。実際がどうかは置いといて、そうあって欲しいと信じたい世界だ。

だから、明後日映画を見に行くのはとても楽しみで、友人さんとお話するのもすごく楽しみだ。どうか、素敵な時間を送ることが出来るように、なんて祈りたくなる。祈らなくても、素敵な時間になることは間違いないけど、それでももっとって欲張りたくなる。

皆様にとって、自分の根本に関わるようなテーマの映画を一緒に見たいと思う人は誰ですか?どうしてその人と一緒に映画を見たいのですか?
そんな問いについて、少し考えて貰えたら、僕は、私は、志賀暁子は、嬉しいです。

それでは、この辺で。
皆様の日々に目一杯の祝福がありますように。



この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?