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なぜ私はこの子の親なのか

我が家には二人の男子がいる。
そのうち一人は、とても神経質だ。

初めての場所、大人数が集う会などがあると、もう緊張しすぎてしまって、何が何やらわからなくなる。
固まる。
何も覚えていない。
そして泣けてくる(何か他の人から嫌なことをされたわけでもなく、恥ずかしい思いをしたわけでもないのに)。

みんなの前でわからないことを手を挙げて聞いたり、いや、百歩譲ってあとからこそっと個人的に聞きに行く、なんてこともモジモジしてしまってなかなか出来ない。

別に親しく話せる友達が居ないわけではない。楽しそうにしている。
だが、どうも細やかなことが気になりやすい性格のようである。

あまりにもそのモジモジが続いて失敗ると、私もちょっと短気になって、
もっとしっかりしないと!とか、
そんなの大したことないんだからもっと堂々としてたらいいんだよ!とか言ってしまうのだけれど。

そんな中、思い出した。
私の小さかった頃のことを。

何か自己分析的なことを小学校か何かで書かされることになった時、
親から、「あなたは引っ込み思案でね...」なんてよく言われていたから、「私は引っ込み思案な性格で...」なんて書いていたっけ(引っ込み思案ってなんなのかよくわかっていなかった気がするのだけど)。

私の子どもは比較的それでも友達と馴染んで遊んでいる気がするが、どちらかというと、私は学校の中での人間関係というのが苦手だった。
学校内特有の、クラス内特有の、その場をうまく切り抜けるための結託とか、変な、薄い仲間意識だとか。あるいは疎外だとか。そういうものが。

だから幼稚園もできれば休みたかったし、小学校もあまり好きではなかった。

今から考えてみたら、大雑把に捉えられない、いわゆるちょっと繊細な子どもたったのかもしれない。


...ん?これはまさに、神経質な我が息子と似てやしないか?

いまでこそ、うまく切り抜ける術を使えるようになって少しはマシになったけど、息子を見ていると、まるで自分が自分のことを鏡で見ている気分になる。

そして、「もっとこうしたらいいんじゃないの?」とアドバイスすることが、そっくりそのまま自分へのメッセージ、励ましになってないか?と気づかされることも多々。

気付いた時には笑えてきてしまうのだけど。
同じじゃん!って。
全然人ごとじゃない!って。

彼は彼であり、自分とは違う人間だ。また私は彼の母親であり、何か彼に望んだり、自分ができなかったことを託したりすることは違うと思うのだが、
彼を見ていると、そして彼をサポートしていると、まるで自分の人生を生き直しているような気持ちになる。

そう、そうだったんだよ。
こういう場面、苦手なんだよ。

心の中の小さな私が激しく頷いている。


彼が私のお腹の中に宿り、我が家の子どもとしてやってきてくれたことは、コウノトリや神さまの采配としか言いようがなく、ハッキリと断言できる意味を持つものではないのかもしれないのだけれど、
こういうあまりにも似た状況、まるで私と同じような道を必死に歩んでいる彼を見ていると、なんで私がこの子の親なのか、そこには深い意味があるような気がしてならない。

そして、私は彼が子どもとして私の近くにいてくれることをありがたく思う。
彼をサポートし、慰めることは、そのまま自分を客観視して自分をサポートし、慰めることになるから。

ちょっと繊細な私。
彼のおかげでそうだったと思い出した。
さらに最近自分の内面とがっつり向き合ったおかげもあり、自分というものを捉え直して少しだけ心が楽になった。

今日は特に、変に緊張することもなく、周りの目を気にし過ぎることもなく過ごすことができた。

そうか、これでいいんだ。

私が余計な力を抜いて歩き出せたら、もしかしたら息子も行き詰まった時に、それを見て感じ取ってくれることがあるかもしれない。

そうであったら嬉しい。

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