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記事をシェア “意識してみよう! 立場を作る「言葉の魔法」”

2018/11/5
看護のお仕事 日経メディカル Aナーシング より一部抜粋

人と人の関係性ができ上がるとき、
発する言葉が重要なことがあります。

特に、初めから上下の関係のある相手に対して
自分から必要以上にへりくだると、
相手は自分が上の存在なのだという意識を強くします。

そのへりくだり方が、「頼りにしている」「感謝している」というものなら
相手は許し、受け入れ、導いてくれることが多いのですが、

「申し訳なく思っている」というものなら、相手は怒り、否定し、認めないという構図ができやすいのです。

「“すみません”を言わないようにする」のではなく、
「“すみません”を別の言葉に言い換える」ということです。

もちろん反省が必要な場合は「すみません」と言います。
でも、例えば何か注意や教えを受けた時は
「すみません」を「ありがとうございます」と言い換えるのです。

今まで言ってきたものを
急に“言わなくする”のは難しいことです。
だから言ってもいいけれど、言葉を“言い換える”のです。

そして、使う言葉を“選ぶ”ことで、
「すみません」の本来の意味も認識できるようになります。
何より、相手が言われて気持ちいい言葉を使ったほうが関係性は良くなるのです。

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引用ここまで

同じ「注意をされた」という状況でも、少し返す言葉を変えるだけで全く相手に与える印象や影響というものが違うんだなぁと驚いた。

と同時にすごく耳が痛い内容だった。
思い出してみれば、社会に出てから、私はとにかくへり下りまくっているから。

周りからどう見られているか、
嫌いだと思われていないか、
常に気にして、

周りのどの人にもできることなら良い人と思われたい、

つまりは「八方美人的」な振る舞いをしてしまう。

何か、悪いと注意を受けたならばとにかくすぐに「すみません」と謝ってダメージを小さくしたいと思う。

もしかしたら、周りから見たら私は謝りまくってる人なのかもしれない。

そして常に相手の顔色を伺い、自分をへり下りまくる。

そもそも、「へり下る」というのは、日本の文化においては相手を立てるという尊敬の気持ちを表す作法だが、

そういう「作法」としての域を私は超えてしまっている気がする。

そしてそれをしている私を見た人は、注意をしたとしても、私に常にへり下って謝られると、やはり私は立場が下となり私のことは認めない、という構図になるのだろうな、と。

つまりは、自分が主体ではなく、他人や世間が主体となっているということだ。

また私が以前のnoteにも、私が真面目であるとの周りの評価があることや、自分自身としても自分のことを真面目であると認めているというようなことを書いた。

たしかに私の性格はどちらかというと真面目な部類なのかもしれないが、それが度を越してしまっているのではないか、

つまりは真面目な振る舞いをする、きちんとできていることを周りにアピールして、そのことで他人からの評価を上げたい、だからもっともっと完璧に仕上げるため真面目の度合いを上げねばならない、

そんな感じのレベルまで行ってしまっているのだ。

これ、書いているのを読むだけでも息苦しくて疲れてしまう。
自分にものすごい無理がかかっている。

中身がスカスカだ。
自分というものがない。

だからきっと自分自身を生きられていないのだ。

常にカチンコチンに緊張しまくり、人の目を気にしすぎている人。
こんな人に面白みを感じようと思っても無理だろう。
親しみも湧かない。

もっと気楽に生きなくちゃ。
色んな人がいて自分のことをよく思わない人だっていても全然おかしくない。
みんながみんな自分のことをスキだ、素晴らしいだなんて思うのは到底無理なのだ。

この記事からすごく自分のことを俯瞰できた。

皆さんはどうだろうか。
私ほどはへり下り、謝りまくってはいないかもしれないが、注意を受けたときには是非「ありがとう」を添えてみてはどうだろうか。

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