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アンナ・カレーニナ|宮沢りえさん|観劇レポート

「おはようございます」
 ホテリエホテルスタッフのなごやかな笑顔をはじまりに、朝食ブッフェをいただいていたところ。フロア係の片付けものの手元がすべったのか、ほど近いところで、お皿の割れる鋭い音。

 フラッシュバックしたのは、前日シアターコクーンで観た『アンナ・カレーニナ』。

 冒頭のシーンで、浮気をした夫スティーバ(公爵/アンナの兄)に向けて怒りを爆発させたドリーが、花瓶か何かを床に叩きつけて見事に粉々にしたその音だったのでした。

⏳ どんな物語?


💜アンナ...宮沢りえ
💜ヴロンスキー(恋人)... 渡邊圭祐
💜カレーニン(夫)...小日向文世

💚リョーヴィン... 浅香航大
💚キティ... 土居志央梨


 この劇を観ることが決まったのが1週間前。それから、時間を見つけてはひたすら読み&聞き進め、3巻ものの2巻まで駆け足でなんとか読み終えました。

 誤解を怖れずにまとめるなら、「二組の男女を軸に、結婚生活にまつわる夫婦のごたごたを深掘りした帝政ロシア期のリアリズム小説」。浮き彫りレリーフになるのは、愛⇔自由、生⇔死。それが『アンナ・カレーニナ』です。

 高校生の頃に、家にあった「世界文学全集」から1冊抜き取り読み始めたものの、「浮気した夫と妻のいさかい」から始まったため、主人公アンナが出てくるところまでたどり着けずにやめたという因縁ある小説。―だって、純情多感な乙女からすると、結婚というのは恋する相手と結ばれてハッピーエンドが永遠に続く、くらいにしか思っていないので、浮気とか理解不能。「只今バッファの処理中です」のままフリーズするパソコンみたいになります。


シアターコクーン入り口


⏳ 配役の妙


 宮沢りえさん、さすがと言うほかはない迫真のアンナでした。ハリウッドでは俳優は顔よりも声、と言われるそうですが、りえさんの声は個性的で張りがあり、美しいと思います。チケットは文字通り最後の一席で1階最後列だったため、舞台から24m(プールの端と端)離れていましたが、マイクで拾われた声と肉声が混ざって届き、オーラを感じました。

 原作だと、黒いレースやヴェロア地のドレスが似合いそうな女性像なのですが、りえさんのアンナはお召し物のとおり、深い赤と黒。原作のモノトーンを光と影とみるなら、舞台版は情熱と冷徹。その冷徹は、アンナのものというよりは、社会制度の持つ冷たい歯車に起因しています。美しいドレスが、上辺のみを取り繕った檻のようで、囚われのアンナは痛ましくもしなやかな女性でした。

 小日向文世さん、印象深い俳優さんでした。原作のカレーニンは、ペテルブルグの大物官僚ですから、社会制度の権化のような人物。油の切れた機械さながら、感情がバラバラに抜け落ちてしまっています。一方、小日向さんのカレーニンは、愛情(情熱)もそこそこありそうだけれど、蓋をして押し隠している印象。(キャラ的に小動物みたいでかわいいなあと思うからかしら。)

 ヴロンスキー伯爵は、一途にアンナを愛する若き美男子。ですが、生来男女どちらからも好かれる人が時々陥る、人を食ったようなクールさがあって、渡邊圭祐さんの雰囲気に合っているなと思いました。


 劇というものは配役である程度決してしまうところがあるようです。いくらヴロンスキーが情熱的なイケメン役で、カレーニンが冴えない役どころであっても、やはり主役級に見えるのは宮沢りえさんと小日向文世さん。アンナとカレーニンの絡みが原作よりクローズアップされて、深みを感じさせました。


⏳ なぜ不幸になっていったのか


 結局は、男女の権利の格差、結婚制度の歪みの犠牲になったのがアンナでありヴロンスキーなのです。
 妻は夫の浮気を許さないとみっともないとそしられる。でも、夫は妻の不貞を見逃すと腑抜けだと誹られる。
 出世街道にいる若い男性は、格上の上流夫人との恋愛によって箔がつくけれど、本気で恋に落ちると鼻つまみ者になり世間から排除される。
 仮に離婚しても、アンナは前夫のカレーニンが死去しない限り、ヴロンスキーと結婚することはできず、二人の間の娘さえ、制度的にカレーニンのものになってしまうのです。

 彼らの社会=社交界は生き馬の目を抜く冷ややかで虚飾に満ちた場所。その場を実際に支配しているのは個人一人一人ではなく、集団の不安や悪意。つまりはそれまでの人々がこしらえあげてきた過去の亡霊なのです。

 自分より二十歳上のカレーニンと愛のない結婚をしたアンナが、若く情熱的な伯爵から言い寄られて、断っても断っても求愛され、強引に迫られると、なかなか断り切れないところがある...ように思います。

 愛を貫こうとして、形骸化した社会のしきたりから逃げ出したアンナとヴロンスキーは、ドリーが言うように、英雄のようでもありながら、最後は破滅に向かわざるを得ませんでした。


⏳ 悲劇へと導くもの


 物語を悲劇に導く原動力には2通りあって、1つ目は主人公の内包する悲劇性、もうひとつは外在的な要因に巻き込まれるパターンです。原作小説はまだ読み終えていないので不明ですが、舞台を見る限りでは、アンナの悲劇はどちらかといえば後者のように感じられました。
 当時よりは自由な結婚観を持つ現代日本での上演だからかもしれません。「今の世の中なら、カレーニンと別れて、ヴロンスキーと幸せになれたのに」と思ってしまいます。
 でも、おそらく本当は、演出家は、前者を目指していたようには思うのです。いつの世も、いずれ生を終えなければならない私たち人間に、永続的な愛(情熱)はあり得ませんが、生の落伍者のようになってしまったアンナが、その見返りとして運命に挑み、求め続けたのはまさにそれだったのですから。

⏳ もうひとつのラブストーリー


 トルストイが描きたかった、自然とともに慎ましく暮らすささやかな幸せ(&信仰)は、リョーヴィンとキティというカップルの純愛によって具現されています。劇の方ではよりリアリズム的に(ないしは現代的に)取り扱われていたため、理想の純愛というよりは、現実的な(ささやかな)愛に近いものでした。舞台という生身の役者さんの存在感のゆえかもしれません。
(長くなるので割愛しますが、リョーヴィンとキティ、どちらも初々しくてかわいらしく、なごんだり甘酸っぱかったり、素敵なお二人でした。)

⏳ 舞台ならではの愉しみ


 久しぶりに演劇を見たので、あらためて「人間」の存在感の大きさをひしひしと感じました。
 アンナやヴロンスキーが舞台中央で演じているその背景、舞台の一番奥の所に、次のシーンを演じるための人々が音もなく息を殺して入ってきます。ですがその、人がいる気配、そこにいるということの圧力がすごいのです。 

 ギリシャ演劇のコロスみたいに、時に彼らは声を揃えてファルセットで叫び、列車の汽笛の音を出します。また、夕暮れの農村で、哀愁を帯びたロシア民謡を口ずさみもするのです。

 当時、文明の象徴として、怖れをもこめて迎え入れられた鉄道や、ガス灯に比べて鋭すぎる電気の光。舞台上では、人の身長の何倍もある長い光の管がいくつも下げられていたのも、象徴的でよい演出でした。

 あの当時も現代のように、科学技術の進歩についていけず、無意識に怖れを抱いていた人が多かったそうです。トルストイの生きた時代、「理由のない自殺」が増えた時期があったのだとか。そういった「時計の針が速すぎる」恐怖も、アクターたちのもつ人間としての圧や念みたいなものとして伝わってきました。

 冒頭でご紹介した花瓶?の割れる音。お皿も花瓶も、ごく身近に私たちを取り巻く"モノ"としての存在感を、実は持っているのかもしれません。割れる瞬間までは、気にも留めずに暮らしているけれど。
 今後も、どこかでお皿が割れる音を聞くたびに、暗がりに浮かぶまっすぐな光の線の間、汽笛と車輪の大音響の只中に立ちつくしていたアンナと、その後の舞台の暗転ブラックアウト、闇―を思い出すのかもしれません。

 トルストイの原作だと、マクロレンズで接写した花みたいに、花脈もしべの花粉も見えるほど克明な人物描写が行われます。その長大な物語を、3時間半ほどの2幕ものに納めるため、劇はかなりテンポ良く場面転換していきます。ところどころ、原作のふたつの場面(アンナ&カレーニン、アンナ&ヴロンスキー)を舞台上で並行させることにより、ふたりの男性の間で身動きの取れなくなるアンナの抑圧が見事に表現されていて、お見事!と膝を打つ場面がいくつかありました。翻案の醍醐味も体験できて、よい観劇となりました。

 夫婦の愛、親子の愛、友情。結婚、死の看取り、新しい命の誕生。蜘蛛の巣のように張り巡らされた人間関係の縦糸と横糸。―生きて死んで生まれる、そのことがすべて。そんなことを思った舞台でした。

宮沢りえさん、あの舞台を一日2回演じる日もあるなんて、人間業ではありません...。



既出(2年前)ですが、イメージに合う気がして

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