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2018/10/13 (回想録 Vol.7: 或る喫茶店[2])

荒井由実の名曲の一つに、「海を見ていた午後」という曲がある。そこに登場するドルフィンというレストランの話。

根岸線根岸駅をおりると、小さなロータリーがあった。元町の繁華街からさして離れてもいないこの町は、遠く離れているかのように静かで、住宅街然としていた。
駐輪場の向こうには切り立った丘があった。崖はコンクリートで固められていて、その上には林とマンションが立ち並んでいた。人々の生活のただなかにありながら、灰色のこの街は荒涼とした都会の安心感に包まれていた。

バス通りに沿っていくつかの中華料理屋やインド料理屋がある以外は人の気配もなかったが、数分歩くと、小さな路地に入った。その先にはとても細い階段があり、駅から眺めていた崖をのぼることができる。途中、老紳士とおそらく近所に住んでいる子連れの夫婦とすれ違った。ここは日常の中にある道の一つなのであった。

♪あなたを思い出す この店に来るたび
坂を上ってきょうも ひとり来てしまった
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

階段をのぼると、ふたたびバス通りに出た。本来はぐるっと遠回りをしてここに至る広い道があったのだ。くねくねした坂道の途中に出たので、左右を確認したが、車が来る気配はなかった。坂の名前は「不動坂」という。坂をのぼると、途中とてもおしゃれな花壇があった。祠もあった。もう一段高い場所とを隔てるコンクリート製の壁によりかかるように、地域の掲示板が古びていた。

ドルフィンは昭和の雰囲気を残した良い外観だった。赤いネオンで書かれたDolphinの文字は、昼間故灯っていなかったが、灯った後の風情を十分に感じさせた。坂の途中に建つドルフィンは、低いほうの一角は駐車場になっていて、黄色い軽自動車が停まっていた。

店内は広々とした窓で、神奈川の海を一望できる。

♪ソーダ水の中を 貨物船がとおる
小さなアワも 恋のように 消えていった

と歌われたとおり、遠くには何隻かの船がゆっくりと動いていた。いまではいくつかのビルが増えて見晴らしは少なからず失われたが、それでも湾の船を眺めるには充分であった。ドルフィンでは、ソーダ水を頼むと、店内のBGMが「海を見ていた午後」に切り替わる。ベタな演出であるが、それがかえって心憎く感じられた。

♪紙ナプキンには インクがにじむから
忘れないでって やっと書いた 遠いあの日

忘れないでほしかった人とここに来たことは無いが、その人が今も忘れないでいてくれたらいいな、と思った。忘れないでほしいのに、早く忘れてしまいたいという気持ちもあるのだから、わがままなものだと思う。

二つ離れた席の家族が、何か特別な日を祝っていた。
美しい光景だと思った。

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