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『街とその不確かな壁』ー村上春樹さん6年ぶりの長編小説

「きみがぼくにその街を教えてくれた。
 その夏の夕方、ぼくらは甘い草の匂いを嗅ぎながら、川を上流へと遡っていった」。

 こんな素敵な出だしから始まる、村上春樹さんの6年ぶりの長編小説。
 10代の終わりに衝撃とともに出会い、間違いなくわたしを形づくるもののひとつになった『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、別の世界線かつ「その先」の物語。
 読みながら胸がいっぱいになって、途中で何度も本を閉じながら、少しずつ読み進めた。

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 読み返しすぎてボロボロになった文庫版『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の、巻頭についている「街」の地図(今回の長編には地図はついていません)。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「街」の地図

 『街とその不確かな壁』の第一部は、この地図を傍らに置いて照らし合わせながら、ゆっくりゆっくり、あの「街」をもう一度散策するような気持ちで読んだ。

 空腹にも、窓の外で日が暮れていくことにも気づかず、家族の夕食を作るのも忘れて(辛うじて我に返り、慌てて台所に立った)、たっぷりと「街」の空気に浸る、溜息の出るような贅沢な時間。

『街とその不確かな壁』の中の街の地形はわたしの手元にある街の地図とは微妙に変わっていて(たとえば、西にあったはずの門は北へと位置を変えている)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とはあくまでも別の世界線のものであることを示唆しているように、わたしには感じられた。

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 これから読むかたのために物語の中身については語れないけれど、物語の中核ではない周辺部分に少しだけ触れさせていただけるなら、「壁」の中の主人公の一人称が「僕」から「私」に、図書館の少女への呼称が「彼女」から「君」になっていたことが、わたしにはとても印象的だった。

 読み進むうちに、壁の内側での呼称がこんなふうに変化したことが示す意味が、とても大きなものとして強く感じられていった。

 物語全体の親密さやコミットメントのようなものが、一段深い別のフェーズへと移行したような。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にそこはかとなく漂っていた「傷つくことを恐れて近づくことを拒むようなクールさ」が、「傷つくことも覚悟した腹の据わった強さ」のようなものに変わったような。
 主人公と物語の、成熟と深まりを象徴しているような。

 そしてもうひとつ印象的だったのが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以外の他の村上作品のキーワードが、読み進む中でいくつも頭によぎったこと。

 直子。緑。壁抜け。カラス。魅力的で風変わりな図書館。
 『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『海辺のカフカ』。

 春樹さんが大切にしてきたモチーフが、各作品を超えてこの物語の中で深く結びついていくそのことに、胸の奥が震えるような感覚を覚えた。

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 春樹さんの書く物語のいくつかは、それを消化するためにわたしにたくさんの眠りを要求することがある。

 「眠りを要求する」というのは決して比喩的な意味ではなく、実際に現実的に、読後数週間にわたってわたしは普段よりたくさんの時間、眠り込んでしまう。
 そしてその物語についての、鮮やかな夢を見る。

 『海辺のカフカ』や『ねじまき鳥クロニクル』のように暴力性がテーマのひとつになっている物語の場合でもその物語にまつわる鮮明な夢を見てしまうため、必ずしも心楽しい体験ではないし(ときには冷や汗をかきながら目覚めることになる)、どうして自分がそんなふうになってしまうのかもよくわからないのだけれど、とにかくそうなってしまう。
 夢見の回数が重なるごとに夢の内容がだんだん穏やかになっていくことから、たぶん物語をわたしなりに消化しているのだろうと受け止めている。
 そしてそのようにして消化したあとには、分析や説明を必要としない「生きたもの」として、物語がわたしの一部になっているという感覚がある。

 この『街とその不確かな壁』もそのような種類の物語だと、読み始めてすぐに感じることになった。

 消化し自分のものにするために、これから数週間、たくさん眠らなくてはならなくなるだろう物語。
 きっとこれから何度も読み返すことになるだろう物語。

* * * *

 最後に、あとがきに書かれていた、この物語が書かれるようになった経緯を、少しだけ。

 この物語の核となったのは、1980年に「文學界」に発表された中編小説『街と、その不確かな壁』。
 書籍化されず「幻の作品」のような位置づけになっていたこの作品発表から40年を経た2020年、春樹さんが「もう一度、根っこから書き直せるかもしれない」と感じ、3年近い時間をかけて「まるで<夢読み>が図書館で<古い夢>を読むみたいに」書き上げたものが本書とのこと。

 村上春樹ワールドの、真髄のような物語。
 村上作品がだいたいそうであるように、この作品もまた賛否両論分かれるのだろうと思うけれど、わたしにとっては何にも代えがたい、宝物のような作品。
 春樹さん、ありがとう!


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 どうぞ素敵な読書体験を!



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