見出し画像

イランの石油王の家で、What's 'Karoshi(過労死)'? と訊かれて。

イラン旅行のとき、ゲシュム島というホルムズ海峡の島に渡ったのだが、その前日に起きた印象的な出来事について。

イランは欧米諸国から経済制裁を受けており、イラン国内ではふだん通りにインターネットやクレジットカードが使えない。それで、いつもの旅行以上に日本で綿密に計画をたて、事前に宿の予約やステイ先とのコンタクト(英語可)も済ませていた。旅程中盤、シーラーズからバンダル・アッバースに国内線で飛び、そこから定期船でゲシュム島へ夕方には到着予定だった。

ところが、昼過ぎ発の国内線が遅延。シーラーズの空港で8時間程の足止めとなった。

「なぜ遅れているのか」「今日中に飛ぶのか」と係員に聞いても、面倒くさそうに「I don't know.」の一言。日本と違ってどこかに問い合わせたり、対応する訳でもなく、当然「sorry」なんて言わない。幸いにもボーディング表示は「delayd」であって「canceled」ではない。そして、郷に入っては郷に従えで、私も諦めて周りの乗客たちと大人しく待合室で待つことにした。

暫くすると、あるご婦人が私の隣にやって来た。スーツの男性が私の隣に座っていたのだが、婦人が彼に二言三言発すると速やかに席が譲られた。何となく私も居心地が悪くなり、席を立とうとすると「あなたは座っていて良いのよ」と婦人はペルシャ語で言っているようである。ジェスチャーで「私は膝が悪いんだから搭乗口の近くに座って当然でしょ。元気な男はあっちでいいのよ」と多分言っている。「私も元気で、しかも旅人で」と下手な英語で言ってみたが、婦人は私よりも英語が苦手であることが分かり、「旅の指差し会話帳」とジェスチャーで何とか会話ができた。私の状況はおそらく伝わったようだ。そして彼女の家は、バンダル・アッバースにあり、シーラーズには膝のリハビリで通っている。子どもはイギリスに留学していたので英語が上手だ。ということが分かり、「もしや相当なお金持ちでは?」と予感した。

22時頃になっていよいよ搭乗できることになった。すると婦人が電話をかけ始め、なぜか私に電話が渡された。恐る恐る「Hello」と言ってみる。電話の相手は婦人の息子で、流暢な英語で「もし今夜のホテルが決まっていないなら、うちに来ませんかと母が言っています。遠慮なくどうぞ」と願ってもない提案。実は、旅の前半でテヘランの白タクにぼったくられたり、イスファハーンで現地の子どもと喧嘩したり、まあまあ散々な目に遭っていたため、誘拐や詐欺の可能性も否定できなない、よく出来過ぎた流れだった。しかし、婦人も一緒であるし「行ってみたい」気持ちと、夜中に見知らぬ街でペルシャ語も喋れないのに宿を探す苦労を考えると、「Yes, please」と答えていた。そういう訳で、私はバンダル・アッバースで見知らぬ親切な方の家に泊めてもらうことになった。

画像1

(写真)イスファハーンの川の中洲で一緒に凧揚げを楽しんだ現地の子どもたち。後で彼らと喧嘩。
仲裁してくれた通りすがりの現地の若者は、その理由に呆れていた。大人げなかった。

婦人は確か、マリアと名乗っていた。夫と息子の三人暮らしの家は、新築マンションの最上階、ワンフロア全てだった。イランの個人宅は割と広い間取りの家が多いことは、旅の前半の各ステイ先で感じていたが、マリアの家は群を抜いていた。家具家電、調度品も高級感が漂っている。

深夜なのに、近所に住む娘二人とそれぞれの夫や子どもたちも私を見学しに集まってくれた。熱々の紅茶と沢山の果物の歓待を受けながら、総勢10人の大家族と私とで質問大会となった。マリア以外は、孫も含めて割と英語が通じ、特にマリアの夫と息子は流暢であった。夫は、一般家庭に育ったが若い頃、「これからは英語を喋れないと」と思い立ち、自分で学費を稼いでイギリスに留学。ガソリンスタンドを2店舗経営し、お金が貯まったので、子どものためのスペース(保育所か児童施設のようなもの?)を建築予定とのこと。篤志家だ。いや、これがイスラム教の喜捨なのかもしれない。息子の名前はぺドラムだったか。留学中でたまたま一時帰国中だった。二十歳前後だろうが、言動もふるまいも紳士的で、「私がもっと若かったら…」と悔やまれる良い男だった。

画像2

(写真)急須 on the やかん。イランの紅茶は激熱だけど渋みはなく、美味しい。

イランでよく訊かれた質問に「なぜ(いい年して)結婚しないの?」「独身なら親と住まないの?」「なぜ女性一人で旅行しているの?」という率直なものがある。マリアの家族にももちろん訊かれた。「結婚相手に出会わなかったんです」「私が知りたいです」「一人が好きなんです」「一人だと現地の人と話をする機会が多いので」と適当に私は答え、彼らは釈然としていない様子だった。それは彼らが聞きたかった答えではないだろうと今は思う。もっと宗教的なことや文化的な違いについて触れつつ、私個人の意見ではなく一般的な日本人について話せていればお互いの理解が更に深まったかもしれない。

そんな質疑応答の中で、マリアの長女から「新聞で以前見たんだけど、KAROSHIって何?」という問い。KAROSHIが日本語と結びつかず英単語かと思い考えあぐねていると、「若い女の子が、KAROSHIで自殺したという記事を読んだ」と長女。「過労死」のことだと分かったものの、日本語でも難しいテーマ。きっとその記事の中で、過労死についての補足はあっただろう。それでも更に、日本人の私に訊きたいこととは、「なぜそんなことが起こるのか」「そんな状況を日本人はどう思っているのか」ということだろう。

私はかなりたどたどしい英語で、こういう意味のことを言った。「日本人は真面目でワーカホリックな人が多く、戦後の経済をそうやって支えてきた。そういう生き方を誇りに思い、沢山仕事をすることが良いこと、働かないのは悪いことという風潮があった。みんなと同じようにすることが日本では好まれる。高齢者でも働く人もいるし、お金が欲しい人もいる。過労死の問題が起きて、今は少しずつ考え方が変わってきている。でもまだ日本には長期休暇はない。私自身も仕事は好きだけど、ヨーロッパの人を見ていて仕事以外の時間も大事にしたいと思うようになった。それで、今はこうしてイランを旅行してあなたたちに出会えた」

画像4

(写真)スィー・オ・セ橋の中にある空間で涼みながら歌う人たち。川も時間もゆるやかに流れる。

議論がそもそも苦手で、英語も下手くそなので、長女とその他全員の期待する答えではなかったかもしれない。ズレたことを言ったかもしれない。でも何も言わないよりはマシだろう。長女は「私たちは家族の時間をとても大切にしている。結婚しても毎週末ここに皆で集まって食事しながら色んなことを話す。毎週よ。だから、仕事の悩みでも何でも話さないと話すことがなくなるし、誰かが悩んでいたらすぐに気付く。あなたは最近家族といつ会った?」と。スペインでも同じ質問されたなと思い出しながら、私は「家族とは半年前かなあ。あ、でも何でも話せる友人は何人かいます」と答えた。「友人、まあ良いかもね。でも家族を守るのは家族だと思う」と長女が言ってその話は終わり、深夜のお茶会は解散となった。

制約の多いイスラム教徒の女性を、そして経済制裁を受けているイラン人のことを、ちょっとかわいそうな人たちだと思っていた。しかし、私や日本人の方がかわいそうだと心配されているように感じた。実家暮らしの友人たちは家族に悩みを打ち明けたりするのだろうか。私は一人暮らしが長いし、面倒くさいから、家族に相談など決してしない。それが自立だと思っていた。友人に相談すると、共感はしてくれるが、過労死や自殺を止める行動までは、さすがにしないだろう。守ってくれるのは、そして守るべきものは家族、なんだろうな。

自分でよく考えること、それを論理的に述べる練習を日本ではもっとした方が良いと思う。と言っている暇があったら、まずは日々、自分で始めようと思った出来事だった。世界ではいつ、どんな質問が飛んでくるか分からない。だから楽しいのだけれど。

画像3

(写真)そんな大変な思いをして辿り着いたゲシュム島で凧揚げ。