感想:映画『レディ・バード』 鏡像であり他人である人たち

【製作:アメリカ合衆国 2017年公開(日本公開:2018年)】

米国カリフォルニア州サクラメントに住む高校生クリスティンは、自らを「レディ・バード」と名乗る。
カトリック系の高校では「型破り」とされる振る舞いをするレディ・バードは、保守的な環境や、堅実で安定した生き方を薦める母マリオンに反発心を持ち、州外の大学に進学しようと考える。
レディ・バードと周囲の人々との関係を軸に、彼女の高校最後の年から大学進学までを描く作品。

「高校最後の1年→プロム→大学進学」というこの映画の時系列は、青春映画としては王道といえるフォーマットである。この「定番」の型を用いているからこそ、レディ・バードの成長の過程や、保守性と自立心との葛藤、随所にみえる現代的な問題提起が際立っていると感じた。

本作の大きなテーマは「保守性と自立心との葛藤」、「親しい人といかに関わるか」がある。
レディ・バードは男女別クラスで校則の厳しいカトリックの学校に通いながら髪の毛を赤く染め、反抗的な態度で停学処分を受けることもある、自我の強い人物像だ。彼女は州外の大学に進学することで、保守的なサクラメントから離れようとする。
一方で、レディ・バードのアイデンティティはそのサクラメントで培われたものであり、彼女の言動にも保守的な面がみえることがある。
初めてのセックスの相手であるカイルが既に何人もの女性と関係を持っており、その人数も正確に把握していないと知ってひどくショックを受けたり、18歳の誕生日当日に身分証明書を出して堂々とタバコとアダルト雑誌を購入する律儀さは、彼女が強固な規範には疑問を持つものの、根っから奔放ではないことの表れだ。
実際にニューヨークに進学すると、地元で強烈な個性を放っていたレディ・バードは街をゆく様々な人々のうちのひとりに収まってしまう。サクラメントを知らない同級生と出会い、クリスチャンであることを自ら表明し、街のカトリック教会に赴く彼女は、地元を離れることで自分を構成するものの一部としてサクラメントがあることを受け入れる。

この「離れて初めて対象がいかに自分にとって重要であるかを知る」というプロセスは、人間関係の描写でも繰り返し登場する。
この映画のメインプロットはレディ・バードと母親のマリオンの反目と和解である。

本作は人物がふたりでフレームに収まり、会話するシーンが多く、レディ・バードとマリオンはその中でも特に「鏡像」であることが強調される。
冒頭の自動車のシーンでの左右対称の構図に始まり、ふたりが似た色合いの服を着ている場面もある。
レディ・バードにとって、マリオンは自分の望まない生き方を強く薦める存在であり、事あるごとに対立する。気の強さや行動力など、似ている部分も多い親子だが、それだけにレディ・バードはマリオンの影響を受けていることを強く否定しようとする。
彼女は冒頭シーンでの鏡像状態を無理矢理降車することで終わらせる。プロム用ドレスの試着では、マリオンの着ている制服と同系色の青いドレスがレディ・バードの身体にフィットせず、次に着た華やかな赤いドレスを気に入るという経緯を通して、レディ・バードが自分が母親と異なる自分を積極的に探していることが窺える。
進学で親元を離れ、マリオンから自分に宛てた手紙を読んで初めてレディ・バードは母への愛情や、自分を形成する彼女の存在を受容する。作中で常に並列に配置されていた親子は、自動車運転の映像では編集によって「重なる」。これは物理的に離れていながら精神的には近づいていることを象徴する。

レディ・バードの親友ジュールズ、前半におけるボーイフレンドで、本当はゲイであるダニーとの関係にも、「一度離れることでより強固な関係を築く」プロセスがある。
特にジュールズとの関係は、女性どうしの友情を極めてポジティブに描き、異性愛主義的な青春映画へのアンチテーゼとも受け取れた。
レディ・バードはセックスへの憧れが強く、前述のカイルにアプローチするために、一時期はジュールズから離れ、カイルと仲が良く華やかなタイプのジェナと行動するようになる。これはスクールカーストのランクアップともいえ、レディ・バードはカイル達と親密になることに成功する。しかし、彼らの価値観に馴染めず、セックスも達成したものの夢見ていたほどの経験ではなかったとわかり、長年にわたって築いたジュールズとの関係がいかに大切であるかに気づく。
自分達がどのように自慰を楽しんでいるかについて語り合い、最終的にプロムで踊るふたりの関係は、女性の性欲の肯定や、幸せを「男女が結ばれること」と定義しない点など、様々な面で先進的だった。(個人的にはカイルとロマンティックな雰囲気になっているときに、ふとジュールズのことを思い出すシーンが好きだった)

レディ・バードは人と1対1で話すことを好む「群れない」人物だ。誰かと向き合うとき、人は相手の中に自分との共通点や、相反するところを見つけ、そこからコミュニケーションをとっていく。マリオン、ジュールズ、ダニーはいずれもレディ・バードと通ずるところがある近しい存在だが、それ故にその存在の貴重さに気づかなかったり、自分と異なる点を見出したときにショックを受ける。自分と相手を分離することで、その関係を適切に把握し、他者として尊重しながら親しい存在として相手を愛することができるようになるのだ。
本作における鏡像の構図は、自己と他者の関係をいかに捉えるかというテーマに寄与している。

この映画における人物像は重層的で、多くの人物が矛盾や葛藤を抱えている。
マリオンの規範を重視する姿勢は、自身がアルコール中毒の親を持って苦労したことや、夫が失業したことで自身が家計を支える状況の中、子ども達には安定してほしいという思いに由来する。夜勤で働き、アジア系の養子をとるなど、決してステレオタイプなコンサバ女性ではないが、娘の型破りな言動には眉をひそめる。
敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、家族を愛していて、そのために自身の性的指向を受け入れられず苦しむダニーも、アイデンティティの中で対立が起こっている。
どんな属性も決して一枚岩ではなく、ひとりの人間の中にも対立がある。それを把握した上で、どう折り合いをつけ、現実に対してどう行動していくかというプロセスを本作は丁寧に描いていた。

とはいえ、現代の米国で制作されたタイトルとして、保守的な環境の問題点を曖昧にせず描いた作品でもあり、細かなショットに含まれる情報量の多さには驚いた。
マリオンが娘のいる同僚に、事前の確認なくピンク色の子ども服を渡すシーン、ダニーの自宅に飾られるレーガンの肖像、メンタルに不調を抱えた神父がそのことを周りには明かしたくないというシーン、中絶反対の講演シーンで一瞬挟まれる中絶経験があると思われる俯いた生徒のショットなど、いずれもさりげないだけに、かえって日常生活に絶え間なく織り込まれる価値観が「窮屈さ」「排斥」を作り上げていることが強調されていたと思う。(ニューヨークのマイノリティへの犯罪の蔓延も示唆され、都市も手放しに礼賛される訳ではない)

丁寧につくられた作品で、人間の葛藤や欲望を肯定し、現代の価値観に基づく問題提起と両立させている点がとても誠実だと感じた。
これまで再生産されてきた「青春」「若者」のイメージに適応できず悩む鑑賞者をエンパワメントする作品でもあったと思う。

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