自分らしく生きることは本当にできるのか(映画『リリーのすべて』感想)

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映画『リリーのすべて』は、究極的に美しい映画でありながら、究極的に残酷な映画であると思う。  

テーマであるトランスジェンダーは、アイデンティティと関係が深い。
アイデンティティ=自分らしさとは、他者から認められて初めて成り立つ。(最近読んだフランツ・カフカの『変身』はまさにアイデンティティとその確立に必要不可欠な他者の承認を描いていて、この映画と繋がる部分があった。)  

本作において、リリーにとって1番の承認者は妻・ゲルダである。「ゲルダの無償の愛によって、リリーはなりたい自分になれた。」かのように思えるが、実はゲルダは心の底ではリリーを受け入れられなかったのではないかと思う。  

中盤で、リリーでいることが多くなった夫に対し「たまには元の夫に戻って欲しい。努力をして。」と要求する。しかし、リリーはその要求に寄り添おうとはせず、二人の関係は徐々に崩れていく。(ここで、リリーを認めようと頑張るゲルダと、ゲルダの要求に寄り添おうとしないリリーの関係には、夫に尽くす妻という男尊女卑的な関係がある。これも、リリーが実はまだ女性になりきれていない事の表れのように思う。)  

その後、必死にリリーを受け入れようと手術にも寄り添うが、やはり目の前にいる肉体はゲルダが愛してきたアイナーなのである。リリーは手術によってアイナーを殺したつもりでも、1番の承認者であるゲルダがそれを認めていなかった。ゲルダがリリーを認めない限り、リリーは本当の自分になれない、アイデンティティを保てないのである。  

ゲルダがリリーを認めるには、どうすればよいのか。
それこそが、本作のラストである。他者が他者を認識する上で必要な肉体を、ゲルダにとってはアイナーにしか見えない肉体を、この世から消すしかないのである。
しかし、劇中の台詞にあるように「アイナーを殺すことはリリーを殺すこと」でもある。
だから、一回目の手術でアイナーが死んだ後、追うようにリリーも死んだのである。  

リリーの死後、スカーフが風にのって飛んでいく場面こそが、リリーが初めて自分らしくある象徴なのである。  

つまり、リリーは、死を持ってしか本当の自分になれなかったのだ。
よくキャッチコピーなんかになっている「自分らしく“生きる”」ことがどれほど難しいしことなのかを悉く見せつける、美しくも残酷な映画である。

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