映画 『ROMEO AND JULIET Beyond Words』 感想

言わずもがな、マクミラン版『ロミオとジュリエット』は名作だ。このことは、その世界的人気からもあきらかな事実である。
 それを踏まえた上で、このバレエの映画化がいかに意味のあることか、ということを今回は書きたいと思う。(そのため、ダンサー、振り付け、音楽の素晴らしさに関しては皆様十分ご存知の事実であるため、特段触れないことにする。)

 映画と舞台の違いの1つとして挙げられるのは、「視線をコントロールできるか否か」ということである。
 映画はカメラワークという技術を用いて、ある程度観客の視線をコントロールすることが可能である。一方舞台は、基本的には舞台という箱を外から俯瞰しているような状況である。俯瞰=ピンポイントでは視線をコントロールできない、解釈できるだろう。「このダンサーが好きだからずっと観ていたい」などの観客の主観によって定められた視線や座席の位置など、舞台を見る視線は作り手の意思によってコントロールできるものではない。(ロイヤルファンは特に「脇役の演技が気になる!」なんて主役そっちのけで舞台の隅ばかり観ている人もいるのではないだろうか。)

 今回の映画版『ROMEO AND JULIET』は、観客に一定の見方を強要している、と捉えることができそうだ。舞台でも様々な人物の関係・心の動きが舞台上に散りばめられ、
絡み合っているが、その王道の解釈をわかりやすく示している。
 例えば、舞踏会のシーンでロミオとジュリエットが周りの目を忘れて惹かれ合う場面。
舞台ならば2人だけに視線を定め、意識的に周りの人物を視界から排除することも可能だが、映画ではカメラが強制的に切り替わり、意図せずとも困惑するティボルトや父親の表情を観ることになる。また、バルコニーのシーンにおいても、時折草木に視界を遮られることにより、茂みから2人をのぞいているかのような視線となり、2人の関係がお忍びであり、決して他者から認められるものではないことを強制的に感じさせられる。結婚式の場面も、愛を誓う2人を背景に、乳母にカメラの焦点を当てることで観客は乳母の目線を強要され、若い2人を見守る立場として場面を見ることになる、。
 とはいっても、カメラワークによる視線の強要にも限界があり、解釈は人それぞれではあるが、舞台と比較すれば、カメラアイというメディアの特色を持って、一定の見方を観客に強要することができる。視線の強要というと聞こえが悪いが、「見方が示されている」という点において、バレエに親しみがなくどう観ていいかわからない、といった人のバレエ入門に適していると思う。また、今まで何度もマクミラン版『ロミオとジュリエット』を観てきたファンでも、「こういう見方があるのね!」と新しい発見があるのではないだろうか。

 また、カメラを構える位置やズーム機能によって、ダンサーとの距離もコントロールが可能である。
 舞台でダンサーを近くで観たければ、チケット競争に勝ち抜き、お金を払い、最前列の席をゲットしなければならない。しかし、映画ならばどこに座っていても極限までダンサーに近づくことができる。ちょっとした目の動きから感情の動きを読み取ることすら可能なのである。過去、友人にロイヤルバレエのDVDを見せた際に「女優みたいだね!でも、生の舞台で表情まで見えるの?」と素朴な疑問を投げかけられ、ドキリとしてしまった。もちろん、表情が見える見えないに関係なく、ダンサーは目線1つまでこだわっている。細部までこだわっているからこそ、ロイヤルの演劇的バレエに重みが出るのだと思う。しかし、
たしかに2階席などに座ってしまってはオペラグラスを覗かない限り表情は見えないのである。
 だからこそ今回、映画を通して改めてロイヤルのダンサーの演技力を思い知らされた。彼らはあくまでダンサーとして踊りの訓練をうけてきたのであって、演技のプロフェッショナルではないはずである。しかし、顔だけをフレームに切り取られても、ちょっとした目の動きだけで物語を伝えることができている。これは、映画化が決定してから慌てて訓練したのではまにあわないはずで、日ごろから観客に見えないところまでこだわって演技を追求していることの証拠であると思う。