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「グッドルーザー」という「言葉」の異変

「グッドルーザー」という「言葉」の異変


負けっぷりのいい人。潔く負けを認める人。負けても潔い人。

コトバンクより引用

先にお伝えしたいのが、これはあくまで、試合の敗者となった時にその瞬間に起きる現象だと思っている。もちろんプロであればインタビューやその後のセレブレーションなども含まれる。
選手もサポーターも一同に起きる事象だ。

私は自身も一人のプレイヤーとして、またコーチとして、選手たちに「グッドルーザー」であろう。という言葉を送る。またその表現も大切にしている。

私が感じているのは、昨今メディアなどから生まれる「グッドルーザー」という表現は何か違うと感じていることだ。(勿論全てではないことは後述の引用記事などでお分かりいただけるはずです)

そしてその言葉だけが「ひとり歩き」してしまっていると僕はそう思っている。

そしてそれが「グッドルーザー」という言葉が「良くない表現」と思われる「異変」に繋がっている。と考えている。
そして誤った使い方や教え方になってしまっているのではと危惧しているのだ。

本来は必ずアスリートに持ち合わせてほしい「グッドルーザー」の精神が、なぜか別の意味として広まり、それって「負けてもよいってこと?」「美学だよね」「本気で勝ちたいの?」など勘違いを生んでしまっている。

そうなると以下のような問題も発生することになる。


「グッドルーザーになりたくない」というのはそもそもの意味が違うという視点


時々メディアなどに取り上げられるこの言葉。

これはあくまで「負けたくない」という想いの強さであって、「グッドルーザー」という視点からかけ離れてはいないだろうか。

キャッチーな言葉であり、日本でも少しづつ話題になってきた「グッドルーザー」の意味を前述で述べたように何か別のとらえ方で、簡単な言葉として使用してしまっていると思うのだ。

日本代表時の吉田麻也選手のインタビューにも下記のような言葉が述べられています。

「日本ではグッドルーザーって、すごく美化されているじゃないですか。4年前の僕たちはまさにそうで、日本に帰ってきて、みんなに褒められたけれど、グッドルーザーはもういいでしょう。グッドルーザーよりウイナーになりたい」

吉田選手に対してなにか特別な感情があるわけではないことをご了承ください。(資料の1つと考えてください)

改めてここで感じるのは「グッドルーザー」とは外部から褒められる為に作られた言葉として認識されているということです。

吉田選手ももちろん試合が終わった後に、戦いあった選手たちと握手や抱擁をしたり、ユニフォーム交換などしています。

なにか悪態をつけたり、文句を言ったりなどしているわけではありません。

なので「グッドルーザー」という言葉のもつ「意味」が違う風になってしまっているのではないかと。
言葉が「ひとり歩き」している感覚を生んでいるのかと思っているのです。

また「悔しいから、グッドルーザーでなくても良い」「悔しいという表現をしよう」

というのもなにか視点が違うのかなと感じているわけです。

当事者にしかわからない問題なのかもしれませんが、RWC2019でのメダル拒否には心を痛めた1人です。

イングランド代表がW杯で表現した「メダル拒否」には正直かなり心を痛め、このようなことは私が指導する生徒や選手には絶対にしてはならないと心に決めた瞬間でもありました。

プロだからこそ。

育成年代だから大切なんだ。ということではありません。

プロだからこそ。代表だからこそ。なのです。

改めて「グッドルーザー」とは考える


自分の人生を懸けて、死闘を繰り広げた当事者のみに起きる事象。
もちろんそれは選手のみならずサポーターもだ。

「グッドルーザー」
闘った相手に最大限のリスペクトと称賛を送ることなのではないだろうか
それがその時間の価値をより深め、また闘った者のみに与えられる人生の素晴らしい瞬間なのではないかと思う。

ラグビーは特にこの試合後の文化に誇りとプライドを持っているわけで、だからこそ僕自身も強くそこを考えてみたわけなのです。


グッドルーザーであれ。そして勝て。勝つために全てを賭けろ。そんなアスリートであれ。

グッドルーザーであれ。
グッドルーザーという魂を持ち合わせた選手になれ。
アスリートで最初から負けようと思っている選手は1人もいません。
ですが時に、必ず勝者と敗者が生まれます。

では負けるべくして負けたのか、そんなことない。
全てを出し尽くし、負けたのなら。相手を称えられる準備ができますよね。それでも足りないのなら。努力をするしかない。あなたは胸を張れます。悔しいです。当たり前です。でも最高の試合をしたのは貴方の力だけではありません。目の前の最高の相手がいたからです。そして目の前の相手もすべてを出し尽くしています。互いに見えない努力をここまで積み上げたのだと。

そうして顔を上げたその姿勢、表現こそが「グッドルーザー」と私は思うのです。

片野坂監督も当時の天皇杯決勝で敗れた際に、こう選手に語り掛けました。

「グッドルーザーでいよう。胸を張って顔を上げて、サポーターにあいさつしよう。この経験を、この場を、この悔しさを次に生かそうよ。絶対にこのチームはいいチームだから、俺は自信を持って言う」

アスリート×ことば

こちらは仙台育英高校野球部監督 須江先生の言葉です。

“グッドルーザー(良き敗者)”であれと。県大会の初戦の前日に(選手たちに)言いました。どこで負けるかわからないから、負けたときに全力で相手に拍手を送って欲しいと。誇らしかった。これが伝統になって、いつか真の王者になれる日が来たらいいなと思う」

「人生は敗者復活戦」仙台育英 須江監督


だからこそ、アスリートは「グッドルーザー」の魂を忘れずに、そして自分自身の勝利を追い求める。

それが本来の「グッドルーザー」が持つ意味なのではないでしょうか?







久しぶりに考えたnoteでした。




またこのようなアスリート関係の「言葉」について取り上げていきたいと思います。


今回も読んでいただきありがとうございました。


※あくまで私の主観ですので、様々な考えがあることは理解しています。


飯塚淳平


noteを読んでいただきありがとうございます。「こんなことしてみたい!」「このようなこと一緒にしませんか?」などご連絡お待ちしています。サポートは「子ども達」「ラグビー」の未来の為に活かします。「ラグビー」を通して「大きな夢」を持とう。