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この悲しみ、この怒り(アメリカでパレスチナを語ることを諦めない)

3月14日、いつも通りの春学期の一日。パレスチナに連帯を示すプロテストが行われると知り、何人かの友達と連絡して、集合場所に向かった。左手には、カフェでテイクアウトしたチキンテンダーの箱。右手には、アイスカフェラテ・シロップ多め。この後に日本語学部が主催するスピーチコンテストの司会をすることになっていたので、ジャケットとベストを着てちょっとおめかししていた。今日は昨日に引き続き快晴となり、気温はなんと18度。0度を下回ることもザラにあったのに比べたら、いかついくらいに暑かった。

お昼の12時半過ぎ。Student Unionと呼ばれる学生会館に、100人を超える人たちが集まった。パレスチナに連帯を示す白黒の模様がついた布を被ったり、プラカードを持ったり、缶バッヂやパッチをつけたり、ただそこに居ることだったり。それぞれの形で、パレスチナへの連帯や、イスラエルの暴力や抑圧、アメリカがそれに加担していることに対しての反対を示していた。

学生会館に集まる学生たち

私は今パレスチナで起きている構造的暴力に反対する姿勢を示すために、そしてガンジーが言っていたように、自分が社会を変えることは難しいとわかっているけど、「社会に自分が変えられないために」ここにいた。さらに、この学生主体の社会運動に見える、人種やジェンダーのダイナミクスが知りたいという知的好奇心からでもあった。プロテストに参加して気づいた点、大事な文脈、それに並んで、興味を持ったプラカードの写真たちをここに残しておく。

”Walk-out”の概念、迷惑と暴力の違い

社会の変革に何が必要かと聞かれたら、今のシステムをあえて撹乱することが、問題提起の手立てになると言えるだろう。ジム・クロウ法のもとで人種差別が制度化していたアメリカで起こった市民権運動は、黒人がバスであえて白人用の車両に乗ったり、移動することを拒んだりと、"good trouble"をあえて生み出すことで、その制度を変えようとしていた。留学先の大学でも、大学にパレスチナでの暴力に加担するなという思いを伝えるために、学長を待つために閉館時間以降もアドミニストレーション・オフィスに居続けたために、学生・職員の57人が逮捕された。そして、今の日本ではあまり馴染みがないなと思ったのは、「ウォーク・アウト」というカルチャー。授業中に教室から飛び出して、ムーブメントに賛同を示すというものだ。「学生は授業に出席するべき」という規範を破ってこそ、意思を示せるという算段だ。先学期のプロテストでは、その時受けていた人類学の授業の先生が、プロテストに自分も参加するから授業の開始時間を遅らせるとメールを送ってきたのを覚えている。授業も大事だけど、それ以上に大事なメッセージがあるだろうという感覚が、主にソーシャルサイエンスの分野では共有されているように思う。

一方で、私の母校(日本のリベラルな大学)でパレスチナのプロテストを行った話を聞いた時、発起人は学長から「その時間は(何かの)イベント中だから、静かにプロテストするならいいよ」という返答をもらったらしい。「迷惑をかけずに思いを伝える」という基盤が日本では大切にされているように思う。だからこそ、アクティビストはとても高いモラルスタンダードというか、一貫性を求められるし、人格がちゃんとしてこそ話を「聞いてもらえる」という感じがする。撹乱を目指すと、「暴動」とか「ラディカルすぎる」というようなレッテルを貼られる。環境問題に取り組む友達は、日本では「迷惑」と「暴動/暴力」の境が曖昧になっているんじゃないかと言っていた。迷惑をかけることへのスティグマが、社会運動の表現の幅を狭めたり、方向性を変えたりしている気がした。

学生運動へのアライとしての大人・教員/職員たち

左から、哲学の教授、エンジニアの職員

このプロテストでは、大人たちの積極的な参加も目立った。例えば、最初のスピーチでは、弁護士の教授が、ガザの土地が、アメリカの不動産会社によってビーチハウスにされ、それがアメリカで「先行販売」されていることについて話していた。また、彼女自身がユダヤ人であるバックグラウンドを踏まえ、自分にとってのhomeland(故郷)とは何を意味するのかを話し、そこからパレスチナの土地について考えるきっかけを与えていた。
写真に写っている哲学の教授は、この暴力を正当化しているのはシオニズム(古代ローマ時代から離散していたユダヤ人が、自分達の国家を作ろうという運動)だと話していた。そして、彼は全米でパレスチナへの連帯を示す教員たちの組織ができたことも話してくれた。学生の支援のみならず、教員(教授)たちが主体的にメッセージを発信していく機会ができたことを喜ばしく伝えていた。
また、その右にいる人はエンジニアの人で、アメリカでこの問題はあまりにも簡単に「脱文脈化」されてしまっていると話していた。一つ一つの事件に目を向けすぎるあまり、それまでの構造的で長期的な暴力や、多くの国の加担が見えにくくなっている。さらに彼は、若い世代へのアライとしての本人の役目を示していたことが印象的だった。機械への知識を活かして、マイクなどのオーディオの設定を担っている姿もあり、学生主体の運動だとしても、それをサポートしてくれる上の世代のアライの存在は大きいなと思った。

怒りよりも悲しみだった:政治に感情をちゃんと持ち込むこと

先ほどの哲学の教授の話の中には、2/29に起きた"flour massacre(小麦粉虐殺)"と呼ばれる事件についてがあった。彼は記事の内容を引用しながら、112人が殺されたこの場所は、イスラエルとの国境が近く、イスラエルに住む人たちまで銃弾の音が聞こえたと話す。そして、イスラエル側にいた人々は、パレスチナの人たちが殺される音が聞こえるたびに、口々に「殺せ!○ね!」と喜び叫んだとも。

教授がそう話すのを聞いて、周りのプロテスターたちは、大声で"Boo!!" "Shame!!(恥を知れ!)"と叫んでいた。でも私の中に生まれたのは、怒りよりも悲しみだった。どうして人が殺される姿を喜べる人がいるのか。その狂気はどこからくるのか。それが理解できなさすぎて、そしてグロテスクすぎて、私は座り込んでただ静かに泣いていた。あまりにも酷いこと、理不尽なことに対して湧き上がる無視できない強い感情。それは怒りかも知れないし、悲しみかも知れない。先学期の人類学の授業で読んだんだけど、集団の情動(≒感情)についてのトップ研究者であるWilliam Mazzarellaは、政治において、そういった感情が語られる余地があまりにも少なすぎることを指摘していた。実際には、多くの情動がうごめき影響しあっているのに、それがないかのように政治は動いていく。でも人を動かすのは、突き詰めれば感情だ。やるせない、悔しい、悲しい、おかしい、なんで、という強い気持ちだ。私はそれらを感じ、示すことを諦めたくないと思ったし、自分の大事な原動力だと、改めて痛感した。

参加者の比率から、「マジョリティの代償」とアメリカで生きるアジア人のサバイバルスキルを考える

参加してみて気づいたのは、UMass(大学)の人種・ジェンダー比率に比べて、プロテストの参加者はかなり偏っていたことだった。まず、人種で見ると白人が多いけど、多くはリベラルな女性かクィア(≒性的マイノリティ)という感じ。白人男性だと、私のゲイのお友達くらいだった気がする。中東や中南米にルーツを持つ人もいたけど、アジア人がほんっとうに少なかった。

いわゆるマジョリティ白人男性の圧倒的少なさ

上智の出口先生が翻訳監修した本「真のダイバーシティを目指して 特権に無自覚なマジョリティのための公正教育」は、私のバイブル的な存在なんだけど、この人種・ジェンダー比を見て、つながった部分があった。それは、不平等な社会構造の中でマジョリティとして生きる上で、もちろん相対的な特権を持つわけなんだけど、その代わりに抑圧の代償も得る、というものだった。そしてその代償の中には、「道徳的・精神的代償(道徳的・精神的な健全性が失われる)」、「そして知的代償(知識の幅が広げられない)」があった。アメリカ社会で、そしてこの大学内で、相対的に大きな力を持つ白人男性たち。彼らは自身の男性性やそれに付随する力を保持するための代償として、他の属性の人たちへの共感や理解能力、知る機会が妨げられ/失われているのではないかと感じた。これは、ゆくゆくは、健全な人間関係のつながりが妨げられる「社会的代償」にもつながる。集団として男性が権力を持っているとされるけど、自殺率が女性の2倍以上と言われているのはどうしてかを考えた時、最終的に自分の感情を話せる相手がいないことや、プレッシャーや孤独感で押しつぶされそうになる、生きづらさの感覚につながっているんだと思う。

アジア人の壁:Bamboo ceiling

そして、アジア人の参加者の少なさについて、その日の夜に図書館で偶然会った友達と話していたら、彼女はとても興味深いことを教えてくれた。まず、アメリカに住むアジア人には、"Bamboo ceiling(竹の天井)"があるとされていて、それは「アジア人はここから先は出世できませんよ」という限界点らしい。(竹って言葉を使う時点でなんか差別的だよねという話も出た。)女性の出世の限界は”glass ceiling(ガラスの天井)”と言われているから、それに似たものだと思う。そしてアジア人のキャリア観と、親の平均的な期待についても。マイノリティとして生きていくこと、さらに国籍や永住権を持っていないとしたらなおさら、潜在的な差別の理由になるものは取り除いておきたいと思うだろう。F1ビザ(学生ビザ)で来ているとしたら、卒業後にアメリカに残るには企業にスポンサーになってもらうしかない。その潜在的な差別の理由となってしまう一つが、こうした社会運動への参加だ。

残念なことに、(どの地域でもそうだとは思うけど)アメリカでパレスチナのことを語るにはリスクが伴う。親パレスチナは、反ユダヤと解釈されてしまうことも多く、そうなると、イスラエルからの寄付を受けるアメリカの組織からは追い出されたり、選考でのスクリーニングやSNSチェックの段階で落とされたりすることもある。ハーバード大学の学長が、親ユダヤな発言をしなかったことを理由に、何十年も前の大学在籍時代のミス(一、二文の剽窃)が重箱を突っつくかのように晒されて、退任に追い込まれたり。本当かわからないけど、SNSでのパレスチナを応援する投稿が集められて、この人は反ユダヤだと出るサイトがあるとかないとか。

こうしたリスクに脆弱なマイノリティは、社会運動への参加から遠のくのも無理はない。でも他のマイノリティとアジア人を比較すると、やっぱり独特な「社会の階段をのし上がれ」という強い期待を感じるのだ。アジア人はよく「モデルマイノリティ(ある社会の中での人口で(人種・民族的に)少数派でありながら、社会平均よりも「成功」している人々のグループのこと)」と呼ばれる。これは、今の社会構造に適応して成功していくアジア人のことだ。その歴史には問題点もあり、それは黒人の市民権運動の時に、マイノリティとして連帯するのではなく、権威側についたという過去も持つのだ。そういう部分もあり、私の肌感として、典型的なアジア人の親は、猛烈に反対するだろうと思う。私の日本人の友達は、一度過去に参加したことを親に伝えたら、二度と参加するなと強く言われたという。家族・社会的な背景が、この人種的なデモグラフィックに影響しているんだなと学んだ。

プロテストに見るアメリカの二極化

面白いのは、パレスチナへの連帯を示す人たちだけではないということ。カウンター・プロテストといって、そのプロテストに対して反対する人たちが必ずいる。今回は、イスラエル(とアメリカ)の国旗をまとってその近くにじっと立っている人たちがいた。彼らはスピーチをどんな思いで聴いているんだろう。

後ろに見えるイスラエルの国旗を持つ人たち。カウンター・プロテスト(プロテストに反対する人たち)と思われる。黄色いのをつけているのはセキュリティや医療チーム。
ポーカーフェイスでイスラエルとアメリカの国旗を纏う人。この人すごいいい位置にいるんよ。その前でパレスチナの国旗が振られている。

アメリカで、「盗まれた地」を語ること

スピーチでよく耳にする、パレスチナの土地を奪うなという文脈で少し違和感を覚えること。それは、アメリカの歴史もまさにそうやってできたじゃないかという点だ。もしパレスチナの土地を植民地支配し、暴力で自由を奪い、そして物理的に虐殺をおこなっていることを非難するならば、アメリカは無傷ではいられない。なぜなら、アメリカの建国の経緯は、ネイティブアメリカンが元々住んでいた土地にイギリス人が入り込み、先住民を追い出したり殺したりしてできた、暴力に塗れた歴史だからだ。それに目を向けずに、イスラエルだけを批判しているのなら、それは欺瞞になってしまう。

プラカードから見る、反対と諦めの違い

民族浄化・暴力に対する反対

文脈:パレスチナでの暴力は今に始まったことではなく、イスラエルは第二次世界大戦後すぐから、何十年にもわたって巨大な壁を築きガザを閉じ込め、暴力を伴ってじわじわとパレスチナの地を占領してきた。

「民族浄化に反対」
「今すぐ停戦、パレスチナを解放して」
「今すぐ停戦」
「占領を終わらせろ」
「占領に対する抵抗は人権だ!」
「占領を終わらせろ、亀の島からパレスチナまで(ハイチ・ハワイ・キューバ・プエルトリコ)」(植民地支配された多くの島と同じように、パレスチナの解放を求めている)

アメリカの加担に対する反対

文脈:アメリカは、イスラエルに対して年間約38億ドルの軍事支援をおこなっている。チャントの中で、"We don't want your dirty war(あなたの汚い戦争はいらない)"という言葉も印象に残った。1960年代のベトナム戦争反対運動を想起させる。

「全てを終わらせろ、アメリカはイスラエルへの援助をやめろ!」

UMass(マサチューセッツ大学)の暴力への加担に対する反対

Rathyeonという世界一位のミサイル製造会社(民間軍事会社)は、私が通っているUmassの経済学部(Isenberg School of Management)と深い関係を持っている。というのも、友達から聞いた話だと、UMassがレイセオンにお金を払って大学のキャリアフェアに来てもらって、毎年学生のエンジニアなどを採用してもらっている、という。パレスチナ問題が活発に議論されるようになってから、このつながりは、自分達の学費がパレスチナで使われる兵器にも使われているのではないかという点で、学生の中で大きな議題だった。最近の学生投票で、今後はそこへの投資を止めることが決まったという。

軍事会社「レイセオンと(UMassは)縁を切れ」
「UMass、あなたの手は血にまみれている」(UMassはパレスチナでの暴力に間接的に加担しているという意味)
「UMassは民族浄化から利益を得ている!レイセオンへの投資を今すぐやめろ」
「UMassは民族浄化に加担している」

パレスチナ・パレスチナの犠牲者に対する連帯

「彼の名前を呼ぼう、餓死したヤザン・アルカファルナ」
「ガザを生きさせよ」

終わりに

正直、このことについてアクションを取ったりこうして記録に残すのが怖いかと言われたら、結構怖い。どこで生きていくにせよ、自分の信条をもとに行動することには、それに親しみを持たない人/組織からのバッシングや、就労の制限などのリスクを伴う。でも、どうしても否定できない情動を見ないふりをすることは、自分が自分でなくなってしまうような感覚に陥るのだ。社会を変えるためというよりも、自分が社会に変えられないために、私はこれからもアクションを起こしていくんだろう。


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