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ぜい肉くん

 まず驚いたのが、我が家のドアチャイムが鳴ったということだ。思わずぜい肉だらけの体を揺すって扉の方を見てしまった。
 そのときわたしは廉価なメーカーのカップ焼きそばを啜っているところで、部屋着のグレーの上下スウェット姿の上、仕事終わりなので当然ノーメイクだった。一見すると仏像が鎮座して焼きそばを食べているように見えなくもない、と我ながら笑ったこともある。
 誰だ、と一呼吸置いて考えて、もう一度焼きそばを啜った。
 某放送局の集金、は撃退しきれず、先日支払う契約をさせられてしまっていたし、和洋含めた新興宗教の勧誘は、彼女たちにも生活がある以上こんな遅くには来ない。わたしの経験上、秋の七時以降に訪問するのは、押せば引き込めると読んだ相手にだけだ。聖書を学校のヤギの餌にしていたわたしには縁のない人たちだ。紙は偉大だ。ヤギの腹も満たせる。神はわたしの腹を満たしてはくれないが。
 何かを注文した覚えはないし、実家からの差し入れもありえない。
 考えつかないのであれば、それは大した要件ではない。つまり、出る必要がないという結論に帰着したわたしは、悠々と残りの焼きそばを平らげて満足の息を吐いた。さあテレビでも見ようかとリモコンを手に取った。
 そこで再びチャイムが鳴った。今度はどんどんと扉が叩かれるおまけつきだ。しかも一向に叩くのを止める気配がない。近所迷惑だと怒鳴りこまれても困る。止む無く出ることにした。
 扉を開けてまた驚いたのが、立っていたのはまだ幼さが残るような、新卒ほやほやといった青年で、元気だけが取柄です、と顔に書いてありそうだった。男は有名配達業者の制服制帽に身を包んでいて、やはり配達か、と思うと怒りが込み上げてきた。
「あんた、どういうつもりなの。扉をあんな……」
 わたしが怒りをぶつけようとしたところで、男は胸の前に抱えていたハスキー犬の子犬くらいありそうな大きさのダンボール箱を押し付け、伝票の署名欄を指さし、「ここにサインお願いしますね」と帽子のつばを上げながらにっこりと人懐っこい笑顔を浮かべた。高級そうな黒革の手袋が配達員には不似合いな気がした。
 男は「ああ、書くもの渡してなかったですね」と照れ臭そうに笑うと、胸ポケットからパーカーのボールペンを取り出してわたしに差し出した。配達員がパーカー? それも廉価なデザインじゃなかった。違和感を覚えた。
 わたしは考えながらもサインしてしまっていた。勿論、宛名の住所がこの部屋番号で、宛先の名前がわたしの名前、「真宮寺梨生奈(しんぐうじりおな)」という完全に名前負けしている名前であることを確認しての上だが。
 男はボールペンをひったくると、帽子を取って深々とお辞儀し、「ありあとあっしたー」と若者らしい中途半端な発音で声を張り上げると、踵を返してきびきびと走り去って行った。
 てっきりアマゾンかヤフオクかなとも思ったが、ダンボールは無地で、ロゴも何もない。ただ、宛名が国家安全保障対策局となっていて、何の冗談かしら、と思った。
 首を傾げながら部屋に戻って開けてみると、まず目に飛び込んできたのが、「おめでとうございます! あなたは全国民から選ばれた八十四番目のテスターです!」という文言が様々な字体やパソコンのワードアートを組み合わせて作られたけばけばしいメッセージカードだった。クリエイティブな香りのしないそれは、いかにもお役所仕事らしかった。
 中からは、円柱形をしている器具で、透明な部分は多分強化ガラスで、底面と天板は金属のものが出てきた。それでいて軽い。底面には赤いプラスチックの台座が融接されていて、天板部分を掴むように持ち、底面を支えながら捻るように回すと簡単に開いた。中からは科学的な薬品のような匂いが漂ったが、一瞬で消えた。器具の側面にはチューブが伸びていて、別添の容器を組み合わせることができるようだった。
 他にも別添の容器があって、ロケットのような、先端が尖った流線型をしていて、中を覗くと螺旋状の溝があることから、ロケットというよりはライフルの弾を思わせる形状をしていた。反対の底面はゴムキャップになっていて、着脱が容易だった。
 本体からは電源ケーブルが伸びていたので、電化製品なのは間違いないのだろうが、一体何なのかとすべて引っ張り出してみると、底からようやく説明書が出てきた。
 説明書を要約するとこんな感じだ。
「『ぜい肉くん』は当機関が発明した最新鋭かつ唯一無二の脂肪吸引機であります。効果は絶大。あっという間に脂肪が切除できる上、痛みもありません。失敬。ここに偽りを書くことはアンフェアなことでありますから正直に申し上げますと、蚊に刺された程度の痛みはございます。そこはよしなに。
 使い方は簡単です。同梱の麻酔クリームを除去したい脂肪の部分に塗っていただき、そこにロケット頭の吸引機のゴムキャップを外した底面を当てて、側面についたスイッチを押していただくだけで、超高速回転した空気が脂肪を絞り上げ、捩じり切ります。こう書くと恐れをなす方もいらっしゃるのですが、ご心配は無用です。麻酔クリームが痛みを蚊に刺された程度まで抑える上、傷口の止血や回復機能の向上の効果ももたらしてくれますので、何のご心配もいりません。
 申し伝え忘れましたが、使用の前には必ず同梱のICチップを本体天板のリーダーにはめ込んだ上でお使いください。当手順を失念して使用し、どのような事故が起ころうとも、当機関は一切の責任を負わないことをお伝えしておきます。
 そして、本『ぜい肉くん』のサービス機能としまして、切除したぜい肉を愛玩ペット化するという試みがございます。
 こうして生まれたぜい肉の塊は生命を持たない存在ながらも、主の呼びかけに反応して体を動かすなど、犬のように仕込めば一定の芸を覚えることができます。なんとも愛らしいとは思いませんか? 自分の体から生まれた、紛れもない分身! ペットとは違って何よりエサ代がかかりません。彼らには空腹も疲れも存在しないのです。なお、ICチップのセットを忘れますと、切除したぜい肉は以上に述べたような行動はとれませんので、必ずチップを最初にはめ込んだ上で当器具をご使用くださるようお願いいたします。
 ここからは少し応用的な『ぜい肉くん』の活用方法になります。ぜい肉くんには、自分と同種の遺伝情報を持った肉塊が近づくと、吸収しようとする性質があります。これを利用し、最初に生み出したぜい肉くんに、後から生み出したぜい肉くんを近づけると、両者が互いに捕食し合い、勝者が唯一の個体となります。残った個体は成長し、大きくなったり賢くなって複雑な芸を覚えたりします。色々とお試しください。
 ぜい肉くんの保管には同梱の円柱形の容器をお使いください。ぜい肉くんは好奇心旺盛で活発でありますので、思わぬ物品の破損や事故・火災に繋がる恐れがございます。必ず容器にお戻しください。
 なお、ぜい肉くんがあまりに巨大になりすぎてしまった場合や、ご不要になりました場合、自治体のごみとして出すことは絶対におやめください。判明した場合直ちに刑法第百九十九条に照らし合わせて厳罰に処せられますので、さらに大きな容器をご用命いただくか、下記に記してある電話番号まで廃棄の依頼をしてください。番号は……。」
 最後にはインスタグラムなどで掲載しないように、という注意書きがされていた。破った場合「法に則らない厳正な処罰」、と書いてあるが、誤植だろうか。
 ふうん、と読みながら、わたしは天板にICチップをはめ込み、スウェットとまさしく肌着と言えるベージュの肌着をまくり上げ、だるんとスウェットのゴムの上に乗った脂肪に麻酔クリームを塗った。クリームはひんやりと冷たくて気持ちよく、柑橘系の爽快な香りがした。
 この何もかもが胡散臭い健康器具を信じたわけではなかった。ただ、脂肪吸引とやらの力が本物で、瘦せられるなら試してみたいという願望があったのも事実だ。ただ、モテたいとか、優越感に浸りたいというプリミティブな感情とは少し違った。
 わたしの根底を突き動かしていたのは、これまでの人生において存在しなかった、「痩せたわたし」という未知の生物といって過言ではない存在を自分の目で見てみたいという知的好奇心だった。
 わたしは生まれたときから巨大児で、食べることも際限を知らなかった。そしてその暴走食欲車両を止めてくれるキアヌ・リーブスのような人物はわたしの前には現れなかった。百歩譲ってスティーブン・セガールでもよかったのだが、とにかく現れなかった。父は頭だけはブルース・ウィリスに似ていると言えなくはなかったけど。まあとにかく、その結果が今だ。
 おまけにわたしのせいで妹の結婚話がこじれ、今まさに破談寸前に陥っている。そのため、わたしは今家族から絶縁された状態なのだ。すべては妹の婚約者が悪い。彼が、わたしが愛してやまないアニメ、「銀の剣のロフラーノ」に登場する主人公の相棒役、伯爵家の三男坊でお調子者だが名うての剣士であるグラムリオン様に瓜二つだったのだ。
 わたしはグラムリオン様の抱き枕を小脇に抱えて熱弁し、勢い余って彼を押し倒してしまう狼藉を働いてしまったのだ。巨漢の女に圧し潰され、彼は困惑して泣き出すわ、妹は泣き叫びながらずっとわたしに罵声を浴びせかけるわ、とんでもない愁嘆場となった。
 それが、三か月前の話だ。その三か月の間に、わたしは家を追い出された。そして一週間前、実家で飼っていたメスの三毛猫、セーナが死んだことを妹に事務的に伝えられ、わたしは必死に手繰り寄せようとしていた実家という糸をするりと離してしまったのだった。
 わたしはクリームを塗布した部分に、吸引用のライフルの弾のような容器を当てる。迷いなくスイッチを押すと、吸引機の中の空気が高速回転し、ぎゅうぎゅうと脂肪を吸い上げていく。痛みはまったくなく、見ていて小気味いいくらいだ。やがて容器が目いっぱいになる頃、脂肪は根元から真空の刃でねじ切られた。このときチクッと針で突かれた程度の痛みはあったが、それ以上のものではなかった。
 半ば期待しながら、半ば慄きながら、吸引機の中の脂肪を卓上に出してみた。脂肪はぼとりと何の形でもない塊として落ち、しばらくぷるぷると震えていたが、やがてむくむくと上に伸び始め、カラーコーンのような形になる。そしてそのコーンのてっぺんに頭のような丸い物体が現れ、コーンの中ほどからは手のようなものが二本伸びて、その内右手に当たる部分には体のどの部分を模したのかは分からないが、杖のような棒状のものを持っていた。
 頭にはゴマ粒のような目が生じ、鼻を思わせる突起も生まれた。人型? と呼んでいいのだろうか。足はない。
 わたしが頭を小突いてやると、ぜい肉くんはぷるんぷるんと起き上がりこぼしのように揺れては戻ろうとした。小突かれるたび揺れているのが、けたけたと体を揺さぶって笑っているように見えて、一緒になって声を上げて笑った。同時になぜか、涙も出た。

 それから三か月、わたしは『ぜい肉くん』で脂肪吸引を繰り返した。お腹、太もも、二の腕、顔。ぜい肉が減っていくほど、不思議と生活習慣も変わり、これまで外食やコンビニ弁当中心だった生活が、自炊生活中心で、肉も何となく忌避されて魚や野菜中心とヘルシーになっていき、料理の腕も格段に上がった。
 なんとなく動きたい気分にもなり、朝ウォーキングを始めて、歩く距離が徐々に伸び、やがては同じ距離を走るようになっていた。体はみるみる引き締まっていった。
 ランニングを終えて顔を洗い、鏡を見たとき、わたしは息を飲んだ。
 わたしは驚きのあまり声を失った。両手で口を押え、少女漫画のようにわなわなと震えた。
 「銀の剣のロフラーノ」には二人のヒロインが登場する。東国の島国から嫁いできたものの夫の侯爵とはうまくいかず、領民からも蔑まれる、黒髪で、憂える美貌の女侯爵夫人恵理と、若く美しく、溌溂として信仰厚く、天真爛漫な伯爵令嬢アンネローゼの二人だ。
 そして、わたしは鏡の中に侯爵夫人恵理を見ていた。まるっきり同じというわけではない。顔立ちの細部の作りには勿論差異がある。でも、目の印象はまるっきり恵理だった。
 わたしはここ数日悩んでいたのだ。脂肪吸引をこれ以上繰り返すかどうかを。ぜい肉くんの大きさは最初掌大だったにも関わらず、三か月の吸収の結果、今や容器に収まるぎりぎりのところにきていた。廃棄するか、容器を大きくし、脂肪吸引を続けるかの瀬戸際だった。正直、巨大になったぜい肉くんが不気味だと感じないこともなかった。小さいうちは子どもの頃流行ったスライムみたいでぷるぷるしてかわいーかも、なんて思ったりもしたけれど、大きくなるにつれて、質感は人の肉のそれなのである。脂肪なだけにてらてらとして蠢く姿は、どこか生理的な嫌悪感さえ抱かせた。
 廃棄すればテストは終了と明記してある。だから今の状態で諦めるか、あのおぞましい肉塊を成長させながら理想の自分を目指すかの二択しかない。あと少しの辛抱だと思う。恵理になれるまでの。恵理はわたしの理想だ。愛のない結婚に、愛を得ようと思うのではなく、愛を与えることを選び、余所者と影で蔑む領民とは、同じ目線の中に入って働き、ときには彼らと真っ向から戦い、信用を得ていく。女性的なたおやかさと男性的な凛々しさ。それが不思議と同居する彼女は、わたしの憧れで教科書だった。人に依拠し、守られるのではなく、自分の身を守れるように。わたしもそうありたいと思う。
 それにわたしが恵理を目指すのにはもう一つ理由があった。ひと月前に出会った、警視庁で働いているという黒崎(くろさき)さんと今お付き合いをしていた。三回目のデートで交際を申し込まれたときに、「君の目は恵理侯爵夫人に似ているね」とその切れ長の怜悧そうな目元を緩ませて言われ、わたしは恵理にならなければと決めたのだ。黒崎さんとはストーカー被害でお世話になったとき、「銀の剣のロフラーノ」のファンだと知って意気投合し、そこから交際がスタートした。
「どうかした? 体調悪いのかな」
 黒崎さんに街灯の下で突然顔を覗き込まれて、わたしの心臓は跳ねる。頬まで真っ赤になったに違いない。デートの帰り道。人気のない、寝静まった街路。
 いいえ、なんでもないの、と答えて伏し目がちに首を振ったわたしは、愛想のない女だと思う。精いっぱいのお洒落をして、下手くそな化粧をして、浮ついたピエロみたい。
「あ、ほら、行者がいるよ。今時珍しいな」
 黒崎さんの指さす方には小さな木製の折り畳みテーブルと座布を張った木の椅子が置かれていて、その上には猫の面を被った長い黒髪の女性行者が正座していた。テーブルの上の行燈の和紙には「占いアリマス」と書かれていて、彼女の目の前には一本の短剣と花札の札のようなものが山になって置かれていた。
「珍しいしさ、占ってみてもらったら」
「黒崎さんって、占いって信じます?」
「いやあ、全然。でも、こういうのって巡り合わせっていうのもあるんじゃないかな」
 さあさあ、と背中を押されるので、仕方なくわたしは行者の前のパイプ椅子に座った。
 行者は札をマジシャンのように巧みに扱って、よく切り混ぜると、わたしの目の前につと差し出した。「二枚お引きなさい」とよく透る声で、まだ随分と若い声音なのに驚いたが、指示されたとおりに二枚引いてそれぞれ置いた。すると行者は札をするすると裏返す。
 現れたのは、猫のように大きくなった鼠が猫を食らっている札と、遊女のような華美な着物を着た女が背後から侍に斬られている札だった。わたしにはちんぷんかんぷんだったし、花札でもタロットでもなく、随分変な占いだなと思った。
「あなたの進む道に幸はありません。大事なものを捨てて戻りなさい。その大事なものはまやかしです。それを捨てることがあなたの幸に繋がります」
 わたしの不安をぴたりと当てているような気がした。引き返すことが正しいのでは、と天秤が傾きかけたところで、「でも、近々僕ら結婚するんだよね。少なくとも、僕はそのつもりだよ」と黒崎さんに言われて天秤が揺さぶり戻される。
「人の不安を煽るやり口は感心しないな。僕は警視庁の刑事だ。この辺りを管轄している刑事の連絡先を置いておくから、必ず連絡するように。そうでなければ、考えがあるよ。法は君たちの側ではなく、僕たちの側にあるのだから」
 黒崎さんは名刺を出してその裏に何かをボールペンで書きつけ、テーブルに叩きつけた。よく見ると、黒崎さんはパーカーのボールペンを使っていた。
 黒崎さんはひどく不愉快そうだった。口調こそ丁寧だけど態度は高圧的で、相手に有無を言わせない圧迫感もあった。けれど行者は焦る様子を微塵も見せることはなく、「私は人の理の外の存在にございます。人の法で私を裁くことは叶いませんでしょう」と座布の上に正座したままぴょんと飛び上がり着地すると、わたしの方に向かって恭しく短剣を差し出した。行者は思った以上に小柄だった。
 その剣は両掌に乗って少し余るくらいの大きさで、鞘は銀拵えで、表面には七輪のバラの細工が施されており、鍔や柄の先端にあるのは一目見て宝石だと分かるほど純度の高い、いわゆるスタールビーやスターサファイアと呼ばれる希少なものだということは分かった。
 わたしは押し返しながら「こんな高価なもの、いただけません」と断った。
 行者はふるふると小動物のように首を振り、「せめてあなたが運命を切り開けるようにと」と再度押し付けた。
「七つのバラは七つの命に。宝剣は邪なるものを払うでしょう。必ず、抜き身で枕元に。さすれば最後までお役に立つでしょう」
 言い終えて行者が手を振ると、どういう仕掛けなのか、テーブルや椅子、行燈や占いの道具が折り畳まれるようにして重なり、一冊の帳面になった。彼女はそれを拾上げると、「それでは、お暇を。リオちゃん」とビルとビルの間の闇に溶けるように消えていった。
 わたしははっとした。幼い頃に呼ばれていたわたしの愛称。それをなぜあの行者が知っていたのか。
 その夜、どういうわけか黒崎さんはわたしを部屋に連れて行ってくれ、耳元で何度も「君は僕の理想だ」と囁かれ、わたしは歓喜に我を忘れそうだった。
 夜が明けるころ、わたしは行者の言葉など忘れ、対策局に電話をして大きな容器を届けてもらった。それは即日配達された。
 でも、行者の最後の言葉は暗示のように残っていて、わたしは抜き身の宝剣を枕元に置いて眠るようになった。
 それから半年後、容器の中のぜい肉くんはほとんどわたしの身長の三分の二程度まで大きくなっていた。この頃にはもう外に出すことが恐ろしくて、一度も出していなかった。
 わたしはというと、もう理想とする姿に近づいていた。体脂肪率はアスリート並みだったし、黒崎さんとの婚約も間近に控えていて、これ以上『ぜい肉くん』に執着する必要はなかった。気味も悪いし、長い付き合いだったけど、焼却処分なり埋め立て処分なりされてちょうだい、そんな気分だった。
 明日には廃棄の連絡をしようと思って、ある夜眠りにつくと、突然ガラスが割れる音がした。まず疑ったのは寝室ベランダだったが、カーテンに風はない。ガラスの破片も見当たらない。その他窓はリビングとキッチンにあるだけだ、と思って、スマートフォンを明かり代わりに点けようと思ったところで、ずるずる、べたん。ずるずる、べたん。と巨大な生物が這うような音が部屋の中から聞こえてきて、わたしは発狂しそうになった。泥棒でもない。なら、なに。
 電撃のように閃いたのは、割れたのは『ぜい肉くん』の容器で、あの怪物が外に出てきて、わたしに危害を加えようとしているのじゃないかと思った。それならこの奇妙な音にも説明はつく。
 どこから、どこからくる。わたしはなるべく背中を壁に密着させ、死角を少なくして待ち構えた。ベッドライトのスタンドの電源を引っこ抜き、それを両手に構えて待ち受けた。するとやがてベッドサイドに指のない、肉厚な赤子のような手がぺたり、ぺたりとかかる。手に持った杖のようなものはそれ自体が意思をもった触手のようにうねり動いていた。顔が覗いたところで、わたしは叫び声を上げてとびかかり、愚鈍な怪物の脳天にスタンドライトを叩きつけた。毎日走りこんでいる甲斐あってか、体はこの緊張状態でも俊敏に動いた。
 だが予想外だったのが、頭が大きく陥没したにも関わらず、怪物はのそのそとした動きを止めようとしないことだった。人体と同様の身体構造をしていない以上、頭は急所ではないのかもしれない。なら、脂肪であることを活かして焼き殺すか。いやいや、それをすれば自分も巻き込まれて焼け死ぬかもしれない。だめだ。電流はどうだ。感電死させられれば、自分に被害は出ない。いや、それもだめだ。昔何かの本で脂肪は電気を通さないというのを読んだ記憶がある。
 いや、待てよ。普通生物は相手の攻撃を受けた時、急所を防御するはずだ。本能的に致命傷を負って生命維持活動に支障が出るリスクは避ける。だがあの怪物は頭を防御しなかった。つまり頭は急所ではない。そして攻撃の時に咄嗟に隠した場所があった。手だ。それも杖のような器官をもった右手を庇うように隠していた。なら、狙うのはそこ以外にない。だが、攻撃できるチャンスは一度きりと思った方がいい。弱点を狙っていると気づけば、相手もそこを庇った戦い方をしてくるだろう。そうすると急所だらけのこちらには分が悪い。
 わたしはもう一度頭側のベッドサイドぎりぎりまで下がり、手探りで宝剣の柄を掴むと後ろ手に持ち、反対の手で鞘を掴むと胸元に差し入れた。
 肉の怪物はもう完全にベッドの上に上がっていた。わたしの声で「アンタハイイワヨネ、チヤホヤサレテサ」とか、「コンドハアタシガアンタニナルノヨ」などと言いながら近寄ってくる。
 杖のような器官は隠していたが、いざわたしの目の前までたどり着くと、それをわたしに向ける。杖の先端がくわあっと開いて、無数の乱杭歯が覗き、生臭い息が漏れる。わたしの吐き出したぜい肉に溜まっていた澱が腐って発酵したような腐臭だった。乱杭歯の奥から深紅の触手のようなものが伸びてくる。恐らくそれでわたしをどうこうしようと言うのだろう。
 一刻も早く切り裂いてしまいたかったが、失敗しては元も子もないので、触手が外に出てくるまで待った。事を起こすのは、相手が勝利を確信したとき。勝機こそ、耐えて忍べ。グラムリオン様の言葉を思い出して耐えた。
 そして触手は乱杭歯の間をすり抜けて出てくると、歓喜の声を上げた。「コレデアタシハアンタヨ」
 わたしは震える口角を懸命に上げて笑って見せ、「負ける者は己が負けることを考えぬ者だ、グラムリオン様のありがたいお言葉よ。冥途の土産にしなさい」と言って後ろ手に隠した宝剣で触手ごと杖のような器官を切り裂いた。宝剣の切れ味は骨董品とは思えないほど凄まじく、まるで豆腐を切っているような手ごたえだった。
 肉の怪物は絶叫を上げ、だが要である触手の器官を失ったことで機能停止し、その場で倒れ、自重に耐えられずベッドから落下した。
 ほっと安堵の息を吐いた瞬間、胸に強烈な衝撃と痛みが走って、わたしは後方に弾け飛び、壁に体を打ち付けた。何が起こったか分からないまま暗闇の中を凝視していると、男のシルエットが浮かび上がった。銃を構えている。銃口からは煙が出ている。つまりわたしは撃たれた。あの怪物ではなく、なぜわたしが?
「あーあ、貴重な実験体が一体おじゃんだ。C‐84。いいところまで来ていると思ったんだが、返り討ちにされるとは情けない」
 黒いコートにダークスーツを身に纏ったその男は、紛れもなく黒崎さんだった。
「見たくもないアニメなんぞ見て、気色悪いセリフを吐いて、それがこの結果じゃ割に合わんだろう、おい」
 黒崎さん、いや、黒崎はわたしが死んだと思い込んでいるようで、ぜい肉くんを散々に蹴り飛ばしながらわたしへの悪態を吐いた。
 彼は腕章を着けていた。そこには国家安全保障対策局特殊任務遂行兵器開発室と書かれていた。警視庁の刑事であるなんてことは真っ赤な嘘で、わたしに近づいたのも、自分のテストしていた『ぜい肉くん』の進捗を知り、あるいは補助して実験の進行を早めるため。
 そもそも、『ぜい肉くん』とはなんだったのだろうか、その答えは黒崎が教えてくれた。
 彼はどこかへ電話をかけると、大声で話し始めた。
「室長、申し訳ございません。C-84は失敗でした。対象者の体を乗っ取る前に急所である器官を破壊され、沈黙しました。ええ、やはり対象の体を乗っ取る器官が急所であることは改善すべき点かもしれません。それで、AシリーズやBシリーズの成功体はどうですか。……なるほど、すでにロシアや中国、それに、アメリカにも潜入完了というわけですね。この計画が成功すれば、我々は我々のチップで制御された絶対に裏切らない、素性も何もかも問題のないスパイを手にするわけですから、諜報・情報戦で世界最先端を行くことは間違いないでしょう。難点は入れ替わりまでの時間ですね。Cシリーズの成功体は今のところ一体だけですが、約九か月かかっています。ただし人格トレースは完璧です。AB両シリーズは期間が短かったものの、人格データのトレースが不十分でした。今後の課題はその辺りにあるでしょう……はい。分かりました。始末した死体の処理など、各所に手配してからラボに戻ります。ああ、室長。対象者の自己認識を錯覚させる幻覚作用は、効果的に作用していたようです。被験者は自分をアニメの登場人物だと思っていましたよ。収穫はそれだけですね、ははは」
 黒崎はわたしを一瞥すると、「次はもっといい女に当たりたいものだな」と言い捨てて、どこかに電話をかけ始める。
 わたしは胸に受けた衝撃でまだ立ち上がれなかったけれど、上半身を使うことはできた。手にはまだ、行者がくれた宝剣がある。行者は言った。「最後に」役に立つと。わたしのまっとうな人生の「最後」と、初めてで「最後」の恋を捧げて、宝剣を思い切り振りかぶった。
「ああ、濁酒(どぶろく)か。例のように、死体の始末を頼む」
 そう、頼んでおくといい。お前の死体の後始末を。
 わたしは思い切り宝剣を投げた。投げれば当たる。なぜかわたしはそう確信していた。空気を切って飛ぶ宝剣は引き絞られた矢のように真っ直ぐに飛び、黒崎の後頭部を貫いた。宝剣が貫通しても即死はしなかったらしく、黒崎は振り向いて、そこに生きているわたしの姿を認めて信じられないと目を見開いて銃を構えたが、撃つ前に事切れてぐるんと白目を剥き床に崩れ落ちた。
 わたしは胸元に入れておいた鞘を抜いた。弾丸は鞘の花の一つに受け止められており、美しかったバラの細工が潰れていた。そこまでしてくれた鞘に感謝をし、触るのも嫌だったが黒崎の頭から、足をかけて宝剣を引き抜き、彼の上等なコートで血を拭うと、鞘に納めて胸元にしまった。ついでに黒崎の銃もいただいておく。
 電話はまだ繋がっていたようで、男がしきりにどうした、とか、おい、とか喚いていたので、しゃがみこんで電話口に囁きかける。
「例のように、死体の始末を頼むわね。死体の名は偽名だと思うけれど黒崎。場所は……」
 わたしはマンションの名前を告げるとありったけの荷物を鞄に詰め込んで部屋を飛び出した。
 夜明けまではまだ遠い。煌々とした月明かりの中、わたしは走り続ける。どこへともなく。ただ心が命じる方向へ。身も心も軽い。わたしにはもう、「ぜい肉」はない。

〈了〉

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