見出し画像

聖者の揺り籠(後編)

■前編はこちらから

■後編

 母が死んだとき、世界はまだ混沌に包まれてはいなかった。
 葬儀は大人が取り仕切っていたから、グレンはほとんど覚えていない。覚えているのは、ただ泣きじゃくって母の棺にとりついていたことと、もしかしたら父が来てくれるかもしれないという期待だけだった。
 グレンが物心ついたとき、既に父は家にいなかった。母からは父は偉い身分なので忙しいのだとずっと聞かされていた。でも、どれだけ忙しかろうとも、母の葬儀に顔を出さないはずはない、とグレンは信じていて、それを周りの大人に訊いてみたが、誰もかれもが「あのお方は来るはずがない」と首を横に振るのだった。
 そして大人たちの言葉の通り、グレンの父親は葬儀に顔を見せることはなく、その後も一切グレンの前に姿を現すことはなかった。だが金だけは定期的に振り込まれていたので、グレンは疎まれることなく伯父夫婦の世話になることができ、名門大学の学生になることができた。
 世界が崩壊してから、大学の数は激減した。この国では三か所だけ存続し、相当の成績優秀者または軍事教練の優秀者しか進学を許されなかった。国によっては壊滅状態にあり、祖国を逃れて日本に来る者も多かったため、学生には外国人も多くいた。
学部も絞られ、学ぶことができる学問は制限されていた。文学などは真っ先に弾圧され、大学の図書館の文学書は焚書の憂き目に遭った。しかも学問だけでなく、銃器の取り扱いや格闘術、戦術論など軍事的な履修科目もあり、大学は優秀な科学者か軍人の二択の養成機関となっていた。名称こそ大学の名を冠していたものの、実態は兵士訓練学校であり、関係者は隠すことなくそう呼称していた。
 大学生になる頃には、グレンは父の存在など忘れていた。自分の人生には関り合いにならない人なのだと、母の葬儀に来なかった夜には、諦めていた。
 その母の棺が、今目の前にあった。これは夢だ、とグレンは思った。
 夢だと思いながら、体は勝手に動いた。棺の覗き窓を開けようとしている。そこにあるのは母の顔だろうが、グレンは見たくなかった。母はグレンを生んだことで周囲から厳しい視線を向けられ、苦労のし通しだった。母は自分を恨んでいるのではないか。そして死後の顔には、取り繕うことのできない憎しみが、ありありと浮かんでいるのではないかと思った。
 グレンの手が、棺の窓を開ける。幼くなっているグレンは、棺によじ登るようにして窓の中を覗き込む。
 棺の中に横たわっていた母ではない、美しい娘の顔を見て、グレンはあっと叫んでのけ反り、バランスを失って倒れて尻もちをつく。
――カスミ。
 棺の中にいたのは、戦死した恋人のカスミだった。彼女は軍事教練の課題中に遭遇した別動隊に山賊だと誤認されて撃ち殺されたのだった。被害は彼女だけだった。他の隊員は軽傷を負ったものの、誰一人として重篤な傷は負わなかった。なのに、彼女だけが死んだ。
 そのとき同行していたメンバーの中に、ライルやクリス、鈴城がいた。これは偶然だろうか。襲撃の真偽も彼らの証言だけだった。なぜならば、襲撃してきた別動隊はライルたちによって皆殺しにされていたからだ。
 グレンは立ち上がると、もう一度背を伸ばしてよじ登り、棺の中を覗き込んだ。
 カスミはかっと目を見開くと、グレンの方を見つめ、声にならない言葉で何かを訴えた。グレンは唇の動きで懸命に彼女の言わんとしていることを聞きとろうとした。
 どうやら彼女が口にしているのは数字の羅列のようだった。それがどんな意味をもつものか分からないが、グレンは必死にその数字の羅列を頭の中に叩き込んだ。夢から覚めても、記憶の中にこびりついて残っているように。

 目を覚ますと、無機質な金属の天井が見えた。背中が微細に振動している。車か何かの中か、と思って体を起こそうとするが、胸に鈍い痛みが走って咳き込み、体から力が抜けてしまう。
「無理をするな。まだ寝ていろ」
 黒いコートに身を包んだ赤髪、赤い瞳の美しい女がベッドの横に座っていた。
「応急処置はしたが、重傷だ。休めるときには休んでおけ」
 グレンは胸元を眺める。包帯が幾重にも巻かれて傷が固定されている。防弾ベストを着ていたとはいえ、深手だったらしい。だが生きているということは、運がよかったのか。
「あなたは誰だ」、そうグレンが顔を向けて訊ねると、赤髪の女は薄く笑う。
「メサイア006。『黒い天使』と名乗った方がお前たちには通りがいいか?」
 やはりそうか、とグレンは息を飲む。幾多の同胞たちの命を屠ってきた最強のアンドロイドが、今自分の隣にいる。そう考えると恐怖よりも感情の高ぶりの方が勝るのだから不思議だった。敵ではない、ということがグレンの深層意識には既にあったのかもしれなかった。
「なぜおれを助けた。メサイア006」
 グレンが問うと、彼女は「エリスと呼べ。今はそう名乗らせてもらっている」と告げて立ち上がった。
「マスターの命令だからな。マスターはお前の学校の教官から守るよう依頼されたと言っていた」
 ライルやクリスの動きには、教官たちも関わっているとグレンは睨んでいた。その一方でグレンの命を守るよう、事もあろうにエリス・如月に助力を乞うということは、教官たちも一枚岩ではないのかもしれない。しかし、エリス・如月と通じることのできる人間がいたというのが、グレンにとっては最大の驚きだった。
「お前は鍵だ。マスターにとってもまだ死んでもらっては困る人材なのでな」
「鍵? 鍵とはどういうことだ」
 思わず体を起こして、グレンは咳き込み胸を押さえる。激しい痛みが走り、苦痛に顔を歪める。
 エリスは医療用キットから鎮痛剤を取り出すと、注射器に込めてグレンの腕に薬液を流し込む。車の振動など物ともせず、エリスは正確に注射を打った。
「医療用アンドロイドも驚きの正確さだな」
 エリスはグレンの皮肉にふっと笑みを零し、「傷つける手段に長けているということは、その逆にも通じているということだ」と言って、再びグレンの横に座った。
「すべての力は正に傾くか負に傾くかだ。私は力の、暴力という負の側面に特化して造られた。だからその反対の力の行使の仕方を学んだ。医療技術もその一環だ」
 グレンは呼吸を落ち着けながら、「戦闘用アンドロイドらしからぬ言葉だな」と苦笑して皮肉を言った。
 エリスはそれを涼しい顔で受け流しながら、「マスターの教えだ」と言ってグレンの腕をとり、脈を計る。
「ところで、この車はどこに向かっているんだ」
 グレンは振動が大きくなってきたような気がして、道が舗装されていない荒れ地に入ったなとみていた。
「『聖者の揺り籠』に向かっている」
「向かっている? 離脱しているんじゃなくてか」
 ああ、とエリスは頷く。
「一度は離脱したが、再び向かっている」
「何のために」
「あそこには、マスターにとって重要な情報が眠っている」
 確かに、ライルやクリスも鈴城に何か情報を引き出させようとしていた。しかもそれはどういうわけか鈴城家の人間でないと引き出せないようだった。鈴城がアンドロイドだったため、ライルたちは入手に失敗していたが。
 だが、エリスたちが離脱したということは、ライルたち――だけではなく、恐らく正規軍もあの施設に入り込んでいる公算が高い。いくらなんでもその中を駆け抜けて最奥のコンソールから情報を入手しようというのは無謀だ。
「敵の剣臨弾雨の中に飛び込むようなものだぞ」
 グレンの懸念にエリスは見とれてしまうほどに美しい自信の笑みを浮かべて、「問題ない。私がすべて排除する」と声に一切の淀みなく言ってのけた。
「あなたの力を疑うわけじゃないが……」
 ライルもクリスも凄腕だ。それに彼ら以外の部隊が既に入っている可能性は高い。
「しかもおれたちが行っても情報は入手できない」
 鈴城家の人間がいなければ。アンドロイドを嫡子だと偽って学校に通わせていたくらいだ。頼んだとて鈴城家が首を縦に振ることは考えられない。それが可能なら政府が既に協力をとりつけていて、あんな騙し討ちのようなことはしないで済んだだろう。ましてやそれを頼むのがエリス・如月となれば、絶望的だ。
「さてな。まあ私は情報の入手については心配していない」
「じゃあ他に何か心配があるのか」
 グレンの問いにエリスは冗談めかして、「お前の身の振り方だ」と答える。
 何か言おうとするグレンを制して、エリスは防弾ジャケットなど装備をグレンに向かって放る。「そろそろ着く頃だ。着替えておけ」
 それから、とエリスは複雑な表情をしているグレンを気の毒に思いながらも、「かつての友人を撃つ覚悟をしておけ」と告げて銃を差し出す。
「おれが撃たなければ奴らが撃つ。なら、おれは撃つしかないだろう」と答えて銃を受け取る。
「マリア、敵影は見えるか」
 エリスは運転席に繋がる窓を開け、ハンドルを握っている銀髪の女性に向かって訊ねる。
「入り口の警護に五人。それ以外はなし」
 マリアは淡々とした口調で答える。
「よし。射程距離に入ったら反転。私が下りて制圧する」
「了解」
 グレンが着替え終わり、銃のマガジンを確認して戻し、エリスの顔を眺めると、緊張も何もないかのように彼女は表情を崩さず、「お前は後からゆっくり来ればいい」と言って腰から二丁の銃を抜いて後部ドアの前に立つ。
「エリス。射程距離に入る」
「ああ。頼んだ、マリア」
 エリスの返答が終わるか終わらないかという内に、マリアはハンドルを切って車を反転させる。すかさずエリスがドアを開けて外に飛び出し、宙を舞っている間に三発の銃声が響き、「聖者の揺り籠」の入り口を守護するように散開していた五人の内三人がエリスの銃弾に額を貫かれて絶命した。
 残る二人が事態を理解し、反撃に転じて小銃をエリスに向けて乱射するが、エリスはその弾の軌道が見えているとでもいうのか、左右に巧みに体を捻ったり跳んだりして銃弾を躱し、一人に近付いて足を振り上げて顎を蹴り上げると、その一人が落とした小銃を拾ってもう一人を撃ち抜いた。顎を蹴り抜かれた男も、首の骨が折れたのか倒れて痙攣していた。
「本当に五人を一瞬で」
 グレンは驚愕しながらも車を降りてエリスの隣に並ぶ。死体を確かめると、軍服の腕章は正規軍のものだった。学生兵ではない、訓練を受けた屈強な正規兵を赤子の手をひねるように容易に制圧してみせるエリスの卓越した戦闘能力に、グレンは戦慄さえ覚えた。偽りの任務だったとはいえ、こんな怪物を相手にしようとしていたのか、と自分たちの自殺行為が滑稽ですらあった。
「開けた空間での戦闘は難しいことはない。だが、この先は狭い。使える空間が限られている。お前の力も計算に入れさせてもらうぞ」
 グレンは苦笑して、「役に立てるかどうか」と肩を竦めた。
 行くぞ、とエリスは「聖者の揺り籠」の扉を開ける。幸いロックは解除されたままだった。
 中に入るとエリスは無防備に銃を提げながらロビーの真ん中を突っ切って行く。グレンはその傲岸不遜ともとれる堂々たる様子に冷や汗をかきながら、警戒態勢をとって銃を方々に向けながらエリスの後を追う。
 エリスは部屋の中ほどに来ると突然立ち止まり、奥の自動扉に向かって銃を構え、引き金を引いた。何を、とグレンが訝った瞬間扉が開き、向こう側にいた兵士は額を撃ち抜かれて弾かれ、倒れた。何が起こったのかすら分からない最期だったろう。「黒い天使」の恐怖を味わわないで済んだのは幸いだったのか不幸だったのか、死んだ兵士に同情すら覚えた。
「来るのが分かったのか」
 グレンが問うとエリスは表情を変えずに、「足音がしたからな」と当たり前のことのように答える。五感の鋭さからして、人間を超越したものを持ち合わせているらしい。それがエリスだからなのか、アンドロイドはみなそうなのか、と考えて、鈴城は決して戦闘能力には優れていなかったなと思う。人間と同様、アンドロイドにも得手不得手はあるのかもしれない。
 異変に気付いたのか、複数人の声がして、扉の向こうから殺到する足音が響いた。これだけ明確なら分かる、とグレンは物陰に隠れて狙いすまし、扉の向こうから来る兵士に向かって銃弾を放つ。胸を撃ち抜かれた兵士はその場に倒れるが、その後ろから新手がやってきて、怒声を上げながらグレンの方を撃つ。グレンは引っ込んで瓦礫の影で銃弾をやり過ごして反撃の機会を待つ。
 だが、エリスは平然と、街でもぶらぶら歩くような気軽さで銃弾の雨の中を舞うようにすり抜けていくと、両腕の銃を連射し、扉の向こうの敵を次々と撃ち抜いていく。エリスが扉に辿り着いたときには、銃声は止んで静まり返っていた。
 グレンが急いで物陰から出て後を追うと、扉の向こうには六人の兵士が折り重なるようにして倒れていた。腕章は学生兵のものだった。グレンはその中にライルとクリスがいるか確かめたが、二人はいなかった。顔見知りの学生兵がいなかったのは、グレンにとって幸いだった。
「グレン。覚悟はいいか」
 エリスの言おうとしていることが、グレンには分かった。学生兵の中に顔見知りがいなかったことに安堵していることを見透かされ、今一度級友を撃つ覚悟があるか、とエリスは問うているのだ。
 グレンはライルとクリスの顔を思い浮かべた。彼らとは机を並べて学んだ仲だ。だが、彼らはグレンの知らないところで結託し、動いていた。恐らく彼らに指示を下している黒幕がいる。彼らは任務のために学校に潜り込んでいたのかもしれない。だとしたら、友情を感じる必要などまったくない。だが、これまでに過ごした日々のすべてが偽りだったのか、とも思う。その中に真実があった可能性も。
 しかし、彼らはグレンを殺そうとした。もはや敵なのだ。殺さねば殺されるだけ。殺さねば、エリスが殺すだろう。せめてもの友情の餞に、彼らは、少なくともクリスは自分の手であの世に送ってやらなければ、とグレンは決意を新たにする。
「問題ない。進もう」
 エリスは頷いて、先に立って廊下を進んで行く。
 最奥の扉の前に立つと、エリスはグレンに扉の死角に隠れているよう指示し、自身も扉の死角に入りながら、扉を開ける。すると開いた瞬間シャワーのように銃弾が扉の間を駆け抜けていき、展示室のガラス張りの壁が砕け、床材が弾けて散らばった。さすがの二人もその銃弾の雨の中を飛び込むことはできず、止むまで息を潜めた。
 銃声が止むと、部屋の奥から聞き慣れた声が飛んでくる。「いるんだろう、グレン。決着をつけようぜ」
「クリス……!」
 グレンが飛び出そうとするのを、エリスが手で遮って妨げる。「安い挑発だ。まず私が行く。十秒経ったら来い」
 エリスは部屋の中に躍り込み、それを合図に再び銃声が響き渡る。
 中には五人。うち二人はグレンを救出するときに相手をした学生だ、とエリスは見た。最小限の動きで銃弾を躱していたエリスだったが、避けきれずに頬と太ももにかすってしまった二発の銃弾があった。偶然じゃない。避けきれないよう計算して撃たれた弾だ、と見抜くと、銃弾の飛んできた方を素早く眺めると、黒髪をポニーテールにした女性兵士がライフルを握っていた。
 エリスは彼女を放置すればグレンが危ない、と判断し、銃を撃ちながら接近していく。女性兵士もさるもので、エリスの銃弾を身をかがめながら回避すると、物陰に入り、それに呼応するようにライルが前に出て銃を乱れ撃つので、エリスも女性兵士の追撃からライルの対応に切り替えてライルを狙うが、そうすると女性兵士が物陰から姿を覗かせて狙いすまして撃つので、エリスとしては回避行動に移らざるをえない。
 グレンはたった二人でエリスを抑え込んでいるライルたちの連携に驚嘆しつつ、これで自分は三人を相手にしなきゃならなくなったぞ、と部屋の中を覗き込み、三人の敵の位置関係を確認する。正面奥にクリス。手前に二人が盾のように立ち塞がって銃を乱射している。クリスを撃つには、手前の二人を倒すのが必須か、と計算していると、ライルたちの連携攻撃の間隙を縫って、エリスが前方二人の頭を瞬時に撃ち抜き無力化した。ちょうど十秒だった。
 今しかない、とグレンは部屋の中に飛び込み、クリスに向けて銃を放つ。クリスの方でも待ち構えていたようで、二人は相対して同時に撃つ。
 銃弾は互いに、クリスの頭の横の壁、グレンの足元の床に突き刺さり、有効打にはならなかった。だが、クリスがグレンはあくまで距離を保って戦おうとするだろうと考えていたのに対し、その裏をつくためにグレンはすぐに駆け出して突っ込んでいた。格闘の模擬試合ではグレンがクリスに勝ったことはなかったため、クリスはタカを括っていた。
 グレンはクリスが慌てて銃を構える隙を突いて、回し蹴りを放ち銃を蹴り飛ばし、逆に丸腰になったクリスに向かって銃を構えるが、冷静さを取り戻したクリスがグレンの腕を打って捻り上げ、銃を落とさせる。落ちた銃をクリスは蹴り飛ばし、銃に意識が向いた瞬間を狙ってグレンの拳がクリスの顔面を捉える。
「ふん。俺に一撃叩き込むとは、やるじゃないかグレン」
「一撃と言わず、何度でも殴ってやるさ」
 グレンは続けざまに腹に拳をめり込ませ、クリスはたまらず呻き声をあげるが、よろめいたふりをして足払いをかけ、バランスを失ったグレンの左頬を殴りぬく。グレンは膝を突きながらも、上体を突っ込ませてクリスの胸に頭突きを食らわせる。
 互角の打ち合いの様相を呈しているように見えたが、グレンは内心で焦っていた。このままでは分が悪いと考えていた。それを裏付けるように、グレンが一撃を食らわせる間に、クリスは二発浴びせていた。徐々に劣勢になってきているのを感じ、何とか状況を打開しなければ、と考えていた。
 狙うは、グレンが落とした銃。クリスの銃は離れたところへ蹴り飛ばしてしまった。だが、グレンの銃は比較的近くに落ちている。格闘戦に応じるように見せて移動し、銃を拾って逆転する。勝つにはそれしかない、とグレンは殴り合いながら少しずつ立ち位置を変え、下がりつつ、銃の方へと近づいて行く。
 銃まで後数歩、と迫ったところで、クリスはにやりと笑って、「お前の狙いが分からない俺だと思うか」と不敵に言ってグレンの側頭部に回し蹴りを叩きこみ、彼がよろけた隙に跳んでグレンの銃を奪い、グレンが慌てて振り向いたところで銃を額に突きつける。
「チェックメイトだ、グレン。いつもはチェスで負けてやっていたが、今日は悪いな、勝ち星をもらう」
 グレンは腰のホルダーに手を伸ばし、ナイフの柄を握る。
「おいおい、おかしな動きをするんじゃないぜ。銃とナイフ。どっちが速いかはお前でも分かるだろう」
 クリスの指が引き金にかかる。「大人しくしてりゃ苦しませずに送ってやる」
 グレンはふっと笑って、「勝負」と短く言うとナイフを引き抜いた。
「ちっ、馬鹿野郎が」と舌打ちして、クリスは引き金を引いた。
 だが、銃声は響き渡らなかった。クリスの胸には刃が見えないほど深々とナイフが突き立っていた。クリスは「なん、で」と呻くと、苦しそうに顔を歪ませ、血の塊を吐きだし、膝から崩れ落ちて倒れた。
 確実にクリスが先に引き金を引いていた。だが、銃弾は発射されなかった。
「銃弾は一発しか入ってなかった。おれが最初に撃った一発だけだ」
 グレンが見下ろしながら言うと、クリスはへへっ、とおどけた笑みを浮かべて、「未来でも、見える、ってのか」と冗談めかして言った。
「ああ。こうなる未来は見えていた。お前との一騎打ちになると、おれはそう確信していた。その後の展開もだ。お互いに手の内を知り尽くしているから、落ちるべき結末に落ちる。そう思ったからお前が勝利を確信する場所に罠を仕掛けた。それだけのことだ」
 グレンはクリスを討てば、もっと心が晴れると思った。だが、どういうことだろう。黒い鉄球が胃の中にずどんと落ちたように、重苦しく、憂鬱な気分が心の中にしみ込んでくる。
「勝った、ってのに、なん、て顔を、してやがる。だから俺は、お前の、ことが、大っ嫌い、だったん、だ」
 クリスは激しく咳き込み、呼吸が空洞を抜けていくかのような虚ろで軽い響きのものに変わる。もう長くない、とグレンは拳を握りしめた。
「おれはお前を親友だと思っていたよ、クリス」
 グレンの頬を涙が伝った。それを見ていたクリスの目にも涙が浮かび、流れ落ちた。
「馬鹿、野郎。そうい、うところ、が嫌い、だって、んだ」
 クリスの口の端から血がつつと流れ落ち、彼の瞳から光が失われた。グレンはしゃがみこみ、クリスの目を閉じてやり、「じゃあな、親友」と震える声で言うと立ち上がった。
 エリスの方の様子を窺うと、エリスもライルたちも決め手を欠いて膠着状態だった。
「クリスが死んだか。キキョウ、ここまでだ」
 ライルがエリスに向かって銃を放ちながら、傍らに膝を突いてライフルを構えた黒髪の女に声をかけると、彼女は「了解しました」と答えて腰に括りつけた球状の物体を外してエリスの方に放り投げる。
 ライルの射撃を回避していたエリスは球状の物体に気づくと、右手の銃を撃って物体を撃ち抜いた。すると物体は破裂して煙を吐き出し、周囲一帯に煙幕を張る。
 エリスは舌打ちして煙から逃れるように後退する。するとそこへ煙に紛れて迫っていたキキョウが不意に現れ、ナイフで切りかかってくる。一振り、二振りと襲い来る刃を銃床を使っていなしつつ、キキョウの腰に向かって蹴りを放つ。しかし直前で腕で防御され、有効打にはならない。蹴った感触とキキョウの肉体の軋み方で、エリスはある事実に気づいた。
「お前、アンドロイドだな」
「そう。あなたと同じ。人を殺すために造られた者」
 キキョウはふっと薄く笑い、手に持った刃をエリスに投げつける。不意を突かれたエリスは辛うじてその投擲を避けるが、キキョウのタックルを正面から受けて弾き飛ばされ、体勢を崩しながらも着地して銃を構えるが、そのときにはキキョウとライルは研究室の出口に立っていた。
「また会いましょう。メサイア006」
 そう言い残すと、キキョウとライルは姿を消した。
 エリスはため息を吐くと、煙幕の中を進んでグレンを呼んだ。すると煙の中から返答があり、安堵する。
「コンソールの前に来い」とエリスが言うと、漂っていた煙が晴れて、その向こう側にグレンの姿が現れる。二人はコンソールの前に並ぶと、コンピューターの操作を始める。
「だめだ。やはり生体認証とパスコードを要求される」
 グレンは操作していた手を止め、エリスの横顔を眺める。その顔には狼狽も落胆もなかった。まるで解除できると信じ切っているような自信が現れていた。
「心配するな。そのまま認証してみろ」
「おれをか」
 驚くグレンに「そうだ」と有無を言わさぬ口調で頷いてみせるので、グレンとしてもエリスの言葉に従わないわけにはいかなかった。
 生体認証を開始すると、走査のレーザーが射出口から照射され、グレンの顔を明るく照らした。レーザーは数十秒グレンの顔を撫でるように回っていたが、やがて消えるとディスプレイには照合成功の文字が現れた。
「どういうことだ」
 困惑するグレンの内心など構わず、ディスプレイはパスコードを要求する。
「コードは分かるのか」とグレンが問うと、エリスは首を横に振った。「鈴城家の者しか知らない」
 ならお手上げだ、とグレンは肩を竦める。
「いいや。お前になら分かるはずだ。鈴城の血を引くお前になら」
「なん、だって?」
 グレンは目の前がぐらりと揺らぎ、コンソールに両手を突いて体を保つ。頭には先ほど夢で見た棺の映像が現れていた。母かと思ったら恋人の亡骸が納められた棺。その棺の中で、彼女が口にした数字の羅列。それをグレンの脳はしっかりと刻み込んで記憶していた。
 まさか、と考えてコンソールに数字の羅列を打ち込む。すると桁数がぴったりで、背筋にぞくっと冷たいものが走ったグレンは、震える指でエンターキーを押した。画面が硬直し、しばらくすると照合成功の文字がディスプレイに躍り、遅れて様々なデータがディスプレイ上に現れる。
「どうしてあなたは、おれが鈴城の血を引いていると知っている。いや、まずそれがそもそも真実なのか」
「真実であることは、今証明されたと思うが」
 エリスはデータを一つ一つ確認しながら、グレンを一瞥し、「今回の依頼、鈴城家が関わっている。お前に関する情報も提供されている」と淡々と言う。
「お前の父親は鈴城家の当主だ。母親は鈴城家で女中として働いていて、手がついた。そしてお前が生まれた。鈴城家にとっては唯一の子どもであるお前が」
 グレンには受け入れがたい事実だった。だが、生体認証で証明されてしまった以上、否定する材料がない。父親が一切自分たち母子の前に姿を現さなかったのもこれで納得がいく。
「ここは、何なんだ」
 鈴城家の人間がデータベースのキーとなった研究所。名目上は如月幸一郎博士の研究所だったはずだが、そこにどう鈴城家が関わってくる。
「『聖者の揺り籠』とはよく言ったものだ」とデータを確認し終えたエリスが嘆息して言う。
「何のデータなんだ、一体」
「いわば完全型人造人間の製造方法と、タイムマシンの理論と設計図」
 は、とグレンは間の抜けた声を出してしまう。タイムマシンなど、空想上の産物ではないのか。完全型人造人間とはなんだ。アンドロイドとは違うのか。
「アンドロイドとは別物のようだ。アンドロイドは骨格などに無機物が使用され、駆動機関も機械だが、完全型人造人間は体がすべて有機物で構成され、人間と同じながら人間を遥かに超える長大な寿命を持ち、身体能力知的水準、そのすべてが人間を大きく上回る存在として設計されている。能力的には現存のアンドロイドをも超越するらしいな」
 エリスの身体能力でさえ、人間から見れば驚異的なのに、その設計図の人造人間は彼女すらも超えるというのだろうか。もしそうならば、人間にとって歯止めが利かない悪魔のような存在になりうる可能性を、如月幸一郎博士は考えなかったのかとグレンは訝しく思う。
「この完全型人造人間を、タイムマシンで過去に送り、人類の歴史上の過ちを修正していくのが、『揺り籠計画』と呼ばれるプロジェクトだったようだ。そして如月幸一郎博士の支援者として中心にいたのが、鈴城家だった」
 超越した「聖者」を作り、それを過去に送り込むことで人類の歴史の舵を取るべき方向に取らせる計画。だが、とグレンは思う。
「歴史を修正したら、如月幸一郎博士が存在する未来が消えたり、完全型人造人間を製造する必要性が消えて、歴史の修正をしなかった未来に変わってしまうのではないか。そうすれば矛盾が生じる」
 パラドックスだな、とエリスは頷く。
「それゆえに設計は完成していながら、ここが打ち捨てられたのかもしれない」
 それか、とエリスは思案気に俯きながら、「如月博士が死んだから凍結されただけで、政府は再び動き出しているのかもしれないな」と呟く。
「ライルとクリス」
 グレンは口元を手で覆い隠し、呻くように言う。エリスは「奴らは先遣隊かもしれない」と言いながら、メモリーカードを差し込み、研究データをダウンロードし、それが完了するとコンピューター内のすべてのデータを消去した。
「奴らに情報は渡せないからな」と言いながら、コンソールの下に設置式の爆弾を設置していく。
「エリス・如月はその情報を使って何をする気なんだ」
 グレンが咎めるような、鋭い語気で訊ねるので、エリスは駄々をこねる子どもを見るように困った微笑を浮かべると、首を横に振った。
「マスターのお考えまでは分からない。私はマスターの手となり足となるだけだ」
「あんたはそれでいいのか。ひょっとしたら、世界を滅ぼす片棒を担いでいるのかもしれないのに」
「それが私の存在理由(レゾンデートル)だ」
 エリスは迷いなくそう答えると、逆にグレンに問い返す。
「私の心配より、自分の心配をしろ。これからどうする。私たちについてくるか。一人で逃亡生活を送るか」
 ついて行く、ということは世界を崩壊に追いやった魔女の陣営に加わるということだ。その魔女と戦うために訓練を積んできたグレンにとっては複雑な思いだった。学校では魔女は絶対悪とされている。だが、エリスとの交流で果たしてそうなのか、という疑念が芽生えてもいた。ここは彼女に同行して、魔女の真意を確かめ、それから味方するのか敵対して魔女の命を狙うのか決めてもいいような気がした。
「まずはあんたのマスターに会わせてくれ。答えはそれから出したい」
 いいだろう、とエリスは頷く。「ただし、妙なことを考えれば、その時は私が殺す。いいな」と脅しつける。それが単なる脅迫ではなくて本気の宣言だということは、変わった声音から窺い知れた。グレンは身震いすると、「承知した」と頷く。
 二人が施設から出ると、コンソールの爆弾が爆発し、耐久性が脆くなっていた研究所は爆発の衝撃で倒壊し、崩れて土煙を上げながら潰れた。施設を出た先では銀髪の女性、運転手のマリアが待機しており、エリスとマリアは目配せを交わし合い、微笑むと頷いて車に乗り込んだ。グレンもエリスの背中を追って車に乗り込む。
 車は走り出す。荒野をひた走る。エリス・如月の元へと。

〈了〉

■関連作はこちら

■サイトマップは下リンクより

■マガジンは下リンクより


この記事が参加している募集

SF小説が好き

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?