見出し画像

愛は知っている。映画監督イチャンドン

痛々しく誠実で奇妙だがそこはかとなく洗練された映像と演出。絶望、怒り、虚無、狂愛。人間の持ちうるあらゆる感情の発露やかけ違いのボタンを淡々と描く映画監督・イチャンドン 이창동に出会った。そして胸打たれた。

今回は第二作目の監督作ペパーミントキャンディ2000・続く三作目のオアシス2002・最新作にして六作目のバーニング劇場版2018の3作品から見えてきたものをつらつらと。ネタバレNGな方は鑑賞後にどうぞ。

画像1

ペパーミントキャンディ 박하사탕

韓国とNHKの共同制作で、1998年の韓国の日本文化開放後、両国が最初に取り組んだ作品。韓国のアカデミー賞といわれる大鐘賞で最優秀作品賞を含む主要5部門を受賞し、批評家からも絶賛された。一人の中年男性が鉄道に飛び込む場面に始まり、彼がそこに至るまでの20年間を七つのエピソードに分けて描く。主演のソル・ギョングが20代の青年から40代の中年男性までを一人で演じた。

画像2

様子の少しおかしいスーツの中年が突如現れ、和気あいあいの河原での20年ぶりの同窓会に紛れこんできたのだが、どうやら彼もその同窓会のメンバーだった。何故彼は誰にも告げずここに来たのか。叫ぶ・歌う・川に飛び込む・などの奇行をしばし続けたのち、鉄橋の線路に侵入し、「戻りたい…帰りたい…」と叫ぶ。するとトンネルの向こうから列車が刻々と近づいてきて・・・。

常軌を逸した不気味な幕開け。次第にゆっくりと謎に包まれた男のこれまでの人生が明らかになっていく。主演のソル・ギョングの迫力と中年から青年期までの演じ分けが凄まじく壮絶でした。やるせなく・泥臭く・不思議な手触りの作品で個人的にはこれまであまり見た事の無い雰囲気の映画でした。1980年に韓国で起こったデモ・光州事件なども交えて描かれる、歴史に翻弄された一人の男の重厚な年代記。

画像3

同じ台詞でも発語される時期が違うとまるで違う意味を持っていてそれが作品にミステリアスな雰囲気を付与していた。時代によって変化していく主人公含む登場人物たちの色んな意味で残酷な表情の移り変わりが作品に悲痛なムードをもたらしていた。

画像4

オアシス 오아시스

主演は前作と同じくソル・ギョング。ひき逃げによる過失致死によって投獄され、社会に馴染めないまま30歳を目前に出所してきたある青年と、脳性麻痺で体の不自由な女性との特異ながら純粋な恋愛と、周囲に理解されないその行方を描く。2002年韓国MBC映画賞で最優秀作品賞、監督賞、脚本・脚色賞、主演男優賞、主演女優賞、新人女優賞を獲得。同年の第59回ヴェネツィア国際映画祭において、監督賞、新人演技賞、国際批評家協会賞などを受賞するなど高く評価された。

画像5

ちなみに主演のみならずヒロインのキャスティングも前作と同一のムンソリさん。古風で愛嬌のあるお顔立ちのムンソリさんは本作で第59回ヴェネツィア国際映画祭で新人俳優賞であるマルチェロ・マストロヤンニ賞を獲得。最近の作品だと「お嬢さん」なんかにも出演。(主人公の叔母役)

画像6

社会に馴染めずへらへらと行き当たりばったりな行動をとり続ける青年ジョンドゥの視点で物語は進んでいくのですが、確実に本作での本来の主役はムンソリ演じる脳性麻痺のヒロイン・コンジュだろう。自身一人では外出も不可能で床を這って少しづつしか移動出来ず、手足は九の字に折れ曲がり痙攣したようにもどかしそうに震えている。時に白目を剥きギョロギョロと眼球を回転させ、歯をむき出すコンジュを演じるのは困難でかなり骨が折れただろう。てっきり実際の脳性麻痺の女性をキャスティングしたのかと思ったほどだ。ムンソリは監督の求めに応じて医学的リハビリテーションを専攻し、そのリハビリセンターで働き、その経験を演技に反映させ見事に難役を演じきった。

画像7

物語が進むに連れ段々と、殆ど物言わぬコンジュの感情が表情から伝わってくる。苦々しく眉間に皺を寄せているように見えるが彼女は最高に今幸せで笑顔なのだろうな、ここのシーンでは上手く思いを伝えることが出来ず苦しんでいるな、という様なことが些細な所作から伝わってくるのだ。ここまでの演技はなかなかお目にかかれ無いだろう。ましてや前作ペパーミントキャンディーでの映画における一般的な可憐なヒロイン像を観ていただけあって衝撃が大きかった。

画像8

思うままに身体を動かせないコンジュが望む人並みの幸せ。恋人をペットボトルで小突いてツンデレイチャイチャしたり、車椅子なんかほったらかして、というかそもそも車椅子が必要ない身体になって自由に抱き合う、ただただありふれた恋人たちの風景。それらがとてもスムーズに映画内での現実と溶け合い、一瞬の幻だとしても願いが叶えられる演出はレオスカラックス・汚れた血での様な生々しく傷つきやすくもイノセントなムードをも想起しました。引きつった表情・不自由な四肢のコンジュが極々自然に立ち上がり、にっこりと笑顔で踊りながら愛の歌を口ずさむ(現実では会話もやっとな状態)脳内でコンジュが望む光景の描写は比類なく美しく、それが故に痛々しく、切実でした。

画像10

西日を蝶々に見立てるシーンの美しさたるや

初めは何のガイドも無く淡々と始まり、どんな文脈で展開していくのか不安にさせられたままスタートしていくのだが、物語が進むに連れ少しずつ事実が明らかになり、観客に登場人物の気持ちが明らかになっていく作りは前作とも共通していました。

バーニング 劇場版 버닝

画像9

フリーターで小説家志望のジョンスは、幼なじみの女性ヘミと偶然再会し身体を交わす。アフリカ旅行へ行く間の飼い猫の世話を頼まれる。数日後旅行から戻ったヘミは、アフリカで知り合ったという謎めいた金持ちの男ベンを紹介する。ある日、ベンはヘミと一緒にジョンスの自宅を訪れ、「僕は時々ビニールハウスを燃やしています」という秘密を打ち明ける。そして、その日を境にヘミが忽然と姿を消してしまう。ヘミに強く惹かれていたジョンスは、必死で彼女の行方を捜すが……。

画像11

前作より8年ぶりの新作映画。村上春樹の短編小説『納屋を焼く』を原作としており、第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、パルム・ドールを争った。第91回アカデミー賞外国語映画賞には韓国代表作として出品され、同国史上初めて最終選考9作品に残った。

画像12

村上春樹の「納屋を焼く」その元ネタ(諸説有)のフォークナーの「納屋を焼く」、両方のエッセンスを汲み取り、現代の韓国の空気感を作品に反映させ批評性・芸術性どちらも高い水準に達している作品かと思います。映画の内容に触れる前にまずは2種類の「納屋を焼く」について説明していきます。映画がメインなので、小説のあらすじは取っ払い、内容にサクッと踏み込んでいきます。

画像13

私見ですが、フォークナーの納屋を焼くは父と子を題材に「怒り」のムードの強い作品であると感じます。フォークナーの作品全般に内包する雰囲気「静かで、表層化していないが確実に存在している怒りおよび悲しみ」加えてそれが差別に根差したものが多くあるという印象です。勿論それだけではなく感情の機微に関する描写がカメレオンの如き巧妙さで散りばめられております。作品中にいくつものテーマが設けられていて重層的な為、一度読んだだけでは理解出来ない作品が多いように思います。

画像14

一方、村上春樹の「納屋を焼く」を読み終えるとひたすらに「ぼんやり」してしまいます。フォークナーに比べて何度読んでも読後の手応えが無く、気付かない内に得体の知れないガスが蔓延している空間にほっぽり出された様な気持ちになります。曖昧模糊としていて、なんと言えばいいのやらと言う感じですが、登場人物達から「情緒」が感じられず作中でどんな行動を取っても、でもこの人たちの心の内は結局「空洞」なんだろうなとぼんやり気付かされるというか…。(感想もぼんやりですいません、本当に何度読んでもコレだ!って感想が浮かばないんですよ)それはある種村上の敬愛するレイモンドカヴァー的であって…云々…などの文学論は置いときます。そもそも影響源やら何やらが膨大過ぎて論じれない。

画像16

納屋を焼くの事を考えていたら、ある言葉を思い出しました。

欲望は、他者の欲望である

ラカン

映画の中でリトルハンガー・グレートハンガーという言葉が出てきます。前者はお腹が空いて飢えている人、後者は生きる意味を見出せず、心が飢えている人。貧困で物質的に飢えているリトルハンガー、心理的に満たされないグレートハンガー。

画像15

主人公ジョンス・かつての同級生ヘミ・そのヘミが旅行先で出会ったベン。立場は違えど全員がハンガーである事が言葉少なく明かされていき、その事実がゆっくりと物語に推進力を与える。中でも印象的だったのはチラシのデザインにもなっている3人で夕陽を眺めているシーンのその少し先。

画像17

偶然に再開した幼馴染みのヘミと肉体関係を持ったジョンスだが、ふらりと現れて当たり前の様に常にヘミと一緒に居るようになった裕福なベンに静かに嫉妬を募らせていた。ボロ屋敷の庭にて貧相なホームパーティー中にヘミが自身をさらけ出し1人天に向かって踊り、静かに涙を流し、酒に酔い疲れて眠っている間のジョンスとベンのやりとりに本作のムードが集約されているように思いました。

画像18

「ヘミを愛している」と静かに口にするジョンスと声に出さず静かに笑うベン。それを受け語気を荒げて「ヘミを愛してるんだよ畜生」とジョンスが吠えるものの、それでも何も言わずに笑い続けるベン。すると絶妙なタイミングで寝ぼけながら起きてくるヘミ。2人が一緒の車で帰る様子を1人眺めつつ自宅のボロ屋敷の前に佇むジョンス。

画像19

初めて鑑賞した際はベンの笑いは勝者の勝ち誇った嘲笑かと思っていたのですが、時間が経つにつれ、あの笑いは欲望の希薄さ・空洞について笑っているのではないかと思うようになりました。

「愛しているだと?俺(ベン)もお前(ジョンス)も、加えてあの女も(ヘミ)心はからっぽで、心底退屈で、実は何にも望んでない癖に」と。

自分自身が切実に欲していると思っているが、実際それは純粋な欲望ではなく、隣の青々した芝を眺めているような感覚ではないか?と、芝になんか本質的に興味が無い癖にと。

ヘミをベンに送らさせずに引き止める事も何度も出来たのにただ黙って見ているだけだったジョンスの姿勢に全て現れているのではないかと思いました。シャイだから声を掛けられなかった、ベンとの格差がある劣等感からグイグイ行けなかった、なんてのは理由にならないと私は思います。切実に欲しているなら必ず人間は行動を起こす筈です。どんなに小さい一歩でも。それは父親とジョンスの関係性ともリンクしていると思います。腹の底に沈殿する感情を隠しつつただの傍観者でいる事。ちなみに何度か差し込まれる定期的に暴力を働いて捕まる父親の裁判を静かに眺めるシーンはフォークナー「納屋を焼く」が恐らく元ネタです。主人公の男の子が同じく暴力的な父親の裁判に呼ばれて証言をしなければならなくてプレッシャーを感じているシーンから小説が始まります。

ジョンスの父も何かしらの理由があり暴力に至るのだと推測出来ます。それは移民問題や国家の悪政など「ぼんやり」とキナ臭く、手に負えない雰囲気だとも言えるでしょう。作中には実際にトランプ氏の発言がTV越しに聞こえてきたり、ジョンスの実家が国境付近にあり、注意喚起のアラームが定期的に聞こえてくるなど不穏な空気が映画内に漂っています。父から子へ虚無は連鎖しています。歪んだ国家という莫大すぎる力に対する降伏。からの虚無感。そんな不信感の中、その不快を拭う為に行われるいわば社会に対する暴力。その影響もあってか、まともに働き口につけない息子。そしてそのまま受け継がれる貧困の歴史。と紐付けしながら「円環」を意識しつつ私は映画を見ていました。

確かにジョンスはヘミが音信不通になった後、方々を探しベンの言うところの次の獲物である納屋が焼かれるであろう場所を探し求めて走り続けます。この時ジョンスは何を期待して、何を探し求めていたのでしょうか?ここが争点かと思います。納屋を焼く=殺人のメタファーと捉えてベンからヘミを助けたかったのか?あるいは自分自身の空洞から目を背ける事が難しくなり、自らのやり方で「納屋を焼く」しかない事に気付いてしまったのか?

ジョンスが取った選択は衝撃的と言われていますが、とても真っ当な道を選んだなと感じました。そうする他無かっただろうから。

ラストシーンまで観た方は、感想など頂けたら幸いです。十人十色の感想になると思いますので色々な意見が聞いてみたいです。

画像20

歪で過酷なカーストが生み出す失望感・虚無感。彩度を落として寒々しい雰囲気の色味で統一された画作りも雰囲気にフィットしており、現代の韓国が抱える闇を穿つ批評性と芸術性のどちらも兼ね備えた上質な映画だと感じました。

画像21

若い頃のイチャンドン監督

過激なキムギドク、エンターテイナーなポンジュノと好みな韓国の映画監督が増えてきましたが、イチャンドン氏は文芸的というか・叙情派の趣きがある監督だなぁと3作品を鑑賞して思いました。ヤンイクチュン「息もできない」なんかが好みの方は避けて通れない道かと。個人的には見逃せない監督リスト入りしました。

ぐだぐだと沢山書いてしまいましたが、シンプルに素敵な映画体験になる事は間違いありません!イチャンドンさんありがとう!!!新作が出る事を心待ちにして何年でも待ちます!!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?