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「麒麟」≒「優作、Z、まどか」説

「生き延びた」とハッキリ明示はしてなかったです。それらしい姿が町中にいただけ。フィクションとはいえ史実に基づいたドラマですから、守るべき一線はあります。作り手のギリギリの配慮を感じました。

私的には、あのラストは松田優作主演のドラマ「探偵物語」の最終回みたいなものと捉えています(刺されて死んだと思われた工藤ちゃんが町を歩いている)。つまり応援してくれた視聴者への感謝と別れの挨拶を併せたものかな、と。もちろん光秀が生きていたと受け止めて喜ぶのもOKです。そこまで含めたファンサービスだから。

そもそも「信長と光秀の関係性の新解釈」が「麒麟がくる」のテーマだったとすれば、本能寺で信長が死んだ時点で作品としては終わっています。その後がうやむやになるのは仕方ない。むしろ当然。だから羽柴秀吉との「山崎の戦い」は描かれず、二条新御所で戦死した織田信忠についても殆ど触れない。歴史的には重要でも今作の世界観においてはまた別なのです。

2006年公開の映画「機動戦士ΖガンダムIII A New Translation -星の鼓動は愛-」では、TV版のハイライトだったシャア・アズナブルのダカール演説がカットされました。これもファン的には重要なシーンでも「新解釈」のテーマとは関係なかったがゆえの措置。今回のケースと似ています。「ダカールの演説」が好きならTV版を、「山崎の戦い」が見たいなら他のドラマをチェックしろということでしょう。

あと思ったのは、信長と光秀の関係性は「魔法少女まどかマギカ」における巴マミと「お菓子の魔女」のそれに近いのかな、と。きっと何度生まれ変わっても深い因縁で結ばれているはず。だとすれば、あの展開を「何度目かの本能寺」として脳内解釈するのもアリじゃないでしょうか。今度こそ信長を殺さず、共に平和な世を作りたい。そう願っていたのに、結局ああなってしまったと。

あ、でもこの説だと「光秀=ほむら」「信長=まどか」になっちゃいますね。まあいいか。ともあれ素晴らしい作品をありがとうございます。「本能寺の変」で泣けるのはかなり斬新な体験でした。


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