絵画に閉じ込められた題名──稠密なキューブの集合
色彩──光を十分に受けた物体の反射光を僕たちは赤、青、緑の三種類を組み合わせて目のセンサーすい体によって感じとる──パウル・クレーの絵画は題名を閉じ込めて、僕の網膜にあるそのすい体を通して詩を伝えてくる。
僕は印象派〜シュルレアリスムの影響を受けた芸術に理由なく惹かれてしまう。
僕という有機体に強い引力を持っているのは音楽ではドビュッシー、ラヴェルであり、詩はエリュアール、ロルカ、アポリネールやアルトーにコクトー、絵画だとモネ、マグリット、ダリ、ピカソ、そしてクレー。
僕にとって、さまざまな色彩の粒立ちは音の粒立ちとほぼ同質の感性を持つ。
そうして僕の脳の中で再構築された映像や音の波形は、シャッフルされたすりガラスの向こう側の映像と音として、僕固有の記憶の断片≒ノスタルジーとともに鳴り響く。
だから現物や実際の音の波形がそのまま僕のイマージュに写像されているわけではない。
色彩について考える。
いま、僕の目に映る風景を極限まで小さなキューブの集合体に微分する。
隣で眠る娘のカールした髪、その向こう側で大の字で眠る妻の愛らしい唇。
各々の稠密なキューブの集合体を《娘のカールした髪》と《妻の愛らしい唇》と言う風に区分けして僕が認識できるのは、集合体を連続的な線として僕が捉えてもいるからだろうか。
キューブを不連続的として、線を連続とするなら、断続は生であり、連続は死すなわち永遠である。
けれども両者の境界はいつも曖昧で、生の不連続面≒キューブの面は鏡面のように「いま」を映し出し、その映像は永遠とも言える。
キューブは正確には不連続ではないかもしれない。それぞれのキューブ間に何かしらの因果関係を感じてしまった瞬間から、連続へと展開してゆく。
そこに新たな色彩が故意に混ざってくると、因果律も変化する。キューブの並びの変化については予測可能であったり不可能であったりするだろうけれど。
連続性と不連続性、波と粒子、線とキューブ。
両方の性質をもつ僕の目の前の風景。
強い陽射しの下でそのキューブがさまざまな色彩を放つと、連続的な線から解放されて独立した細胞の隅々までを輝かせるかもしれない。
そしたら僕はそのときそれらすべての色彩を受け止めきれるだろうか?
溢れた色彩たちが踊り出し僕をからかいながらまとわりつくだろう。
性愛対象者である妻の柔らかい唇。
妻という有機体とはまるで別の有機体の性器のように感じるのは色彩だけのせいではない。
妻から半独立した有機体として、官能を刺激する泡立つような音の波形とあたたかな温度、緩やかなカーブの線、薄い桃色の色彩がそれらを包括し《妻の唇》として僕の脳の中心を強打するのだ。
昼間、西鎌倉のファミリー・レストランで僕たちはオムライスを食べた。
オムライスを食べる妻を見つめていて、僕は昨日読み終えた吉行淳之介の『砂の上の植物群』の唇の持つ官能の独立性を思い出した。
僕は妻の唇だけではなく、彼女の瞳の不思議な色味も好きだ。彼女の灰緑色の瞳に映る僕は青緑の影のようだ。
その影となった僕は彼女と一体化している──「○○、オムライス食べないの?」
彼女が僕の名を呼ぶ。
僕の名前を呼ぶ彼女の声。
それは彼女から半独立した唇を最終的に通って、産道を通るかのように、音の粒立ちがひとまとまりになって僕の耳に聴こえてくる。
僕の名前を呼ばれることの幸福を青緑の僕の影が感じ取り、冬の落ち葉のように風に舞う。
*
ところで、雌の蚕の腹はとてもエロティックだ。
ぷっくりとした唇を彷彿させる。
蚕の生成りの白い腹と赤みの唇。
蚕のエロスといえば、安部公房の『壁』に収録された『赤い繭』がある。
自らの肉体、鮮血を糸に変えて魂を外と隔てる。
その風景に僕はエロスを感じずにいられない。
*
蚕の腹のような妻の唇──唇というミューズが僕の中でかなりくっきりと顕在化した瞬間だ。
こうしたミューズのイデアの顕在化は、ミラン・クンデラが『不滅』の中で、アニエスに演じさせてもいる。
淡い赤をその風景に溶け込ませて、妻と娘を交互に見て、オムライスを食べた。
僕はこの昼の風景にどんな題名を閉じ込めて永遠にしようか悩む。
──
これは僕の吉行淳之介の『砂の上の植物群』の感想である。エロスの観点から、個を深く掘り下げるということは、個体を線ではなくて、稠密なキューブの集合体として捉えることに似てる。
だからクレーの絵に著者は親和性を感じざるを得なかったのかもしれない。
ドビュッシーの夢を聴きながら。
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