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差異と反復横跳びの日記2022/02/16-20

差異と反復を精読する朝活

上巻終了。
概念とその対象は記憶と自己意識のなかで実現されている これを表象=再現前化と言う。 本書はこの表象に関しての差異と反復を分析し、プラトンらの時代からの表象に関する考え方を徹底的に検証している。 そして、プラトンのシミュラークルを批判しつつ、ライプニッツ主義的なものや、スピノザ、ベルクソン、ニーチェ、ハイデッガーらの存在論的差異などを検証。その上でニーチェの永劫回帰を駆動エンジンのように持ち同時にニーチェの権力への意志を生成する体系『差異と反復』による表象=再現前化のモデル化を鮮やかに打ち出そうとしているようだ。
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第二章においてプラトンのシミュラークル批判は上巻p338 プラトンのシミュラークルによる同じもの似たものは異なるものについての同じものであり、多についての1であり、似ていないものについての類似であるとし、プラトン主義の真の動機がシミュラークルの問題のなかにあると指摘している。 
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第3章にて、デカルト/カントらが思考のドグマティックなイマージュの公準化を行ったと指摘し、これをイマージュなき思考とやや?厳しい批判をしている。 このイマージュなき思考プロセスの検証が下巻に続くようだ。
「学ぶ」とは何を意味するのかについての結論部分

学ぶということ、それは《理念(イデア)》を構成しているもろもろの関係=比の普遍を洞察することであり、それらの関係=比に対応している諸特異性を洞察することなのである。

差異と反復 上 ドゥルーズ p436

例えば、特殊相対性理論を学ぶ、とする。

前提:光速普遍の原理 速度は限界があり、光の速度がMAXである。これを超える速度はない。

命題P:ピタゴラスの定理を学ぶと特殊相対性理論を学べる

なぜピタゴラスの定理a^2+b^2=c^2を知っていたら、アインシュタインの特殊相対性理論を学べるのか?

理由:対象の移動距離をa、対象の光の高さをbとしたら、観測者からみた光の移動距離が斜辺cとして導き出せるからである。

理由を述べる時に、このように、命題Pの要素同士の関係を考える。
つまり、因果関係を導き出す作業≒「関係=比の普遍を洞察することであり、それらの関係=比に対応している諸特異性を洞察すること」とも置き換えられる。

そのため、ここの部分の著者の考えには同意する。

物事をじっと見つめると、偶然の存在同士の間に、因果関係を見出したりすることがあると思う。スピノザの水平なまなざしを持っている者であれば、その頻度は高いかもしれない。

と、色々と考えながら読むと、ドゥルーズはスピノザ好きなんだろうな。とふと思うのだった。

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メモ:
俺は今のところ、以下のように捉えている。
フロイトのエネルギー≒リビドーを場における強度(p264)、反復と想起を反比例と捉えている。フロイト的には反復をやめる=ノイローゼをなおす(p64) ニーチェの権力への意志=力の累乗とすることから、最初の感想を訂正しなければならない。ニーチェの永劫回帰を駆動エンジンとして行われる権力の意志の生成のような体系(空間or場)

ある事象の集合Mとする。
概念の内包をmとしm∈Mの対象領域内で、X軸を時間、Y軸を何かの密度(記憶や思考?曖昧だ)と捉えている。事象mに対する変動を解析する手段として、dy/dxつまり差異≒微分をイメージしているようだ。リビドーはこの変動に対する微分係数としている模様。
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正直言ってかなり乱暴な適用の仕方であり、数学的に捉えるならもっと明確に根拠と共にパラメータを一番最初に宣言すべき。言いたい事はなんとなくわかる。
それでもリビドーを微分係数としているのはユニークだけれども、なんだか乱暴すぎる気がする。

また、2022年の現代において、医学、脳の生理学的解明が進む中、スタンバーグテストなどでの短期記憶の定量化もスタンダードな手法とされ、こうした哲学が廃れてしまったものに、寂しいことだが、思えてしょうがない。

しかしながら、自然科学が凄まじい発展を遂げている中であっても、すぐに攻略本を見ない、深く洞察する力を養う、自分なりの考えを持つ、倫理を考える為に哲学する、というのは非常に大切であり、哲学の意義がまだまだあるとは思う。

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下巻を精読する。

閑話休題

哲学と数学、自然主義、唯物論に対するコラム

哲学の目的が極論、愛だとして、事象を分析、検証、突き詰めて考える
という一連の思考プロセスは人間独自のものかも知れない。
そうしたプロセスにおいて、論理的思考は軽視できない。また、哲学のみならず、述べるまでもなく様々な場面で『思考』しながら平々凡々に生活している。
論理的思考を養うのに数学は有用とも言える。
何故ならば公理、定理、証明、と客観的に行えるからだ。
ドゥルーズのカントやデカルトのドグマ的思考批判も一理あるが、だからといって数学的思考を軽視はできないと思う。

かと言って、数学的あるいは自然科学的モデルをそのまま哲学に適用することには慎重になるべきだとも思う。

ドゥルーズは『差異と反復』上巻の中で、
反復は、反復する対象に、何の変化ももたらさないが、その反復を観照する精神には、何らかの変化をもたらす。(p197)
とヒューム、ライプニッツらからヒントを得て反復における差異を以下のように言語化している。

どの事例も、つまりどの客観的なシークエンス<AB>も、ほかの<AB>から独立している。反復は、(ただし性格には、ここではまだ反復とは言えないのだが)対象すなわち<AB>という事態に、反の変化ももたらさない。
そのかわり、鑑照する精神のなかに、ひとつの変化が生じる。つまり、ひとつの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである。

差異と反復 ドゥルーズ 河出文庫 上 p198

反復の基を主観的に見た場合、t秒後の表象=再現前化にフォーカスすると、限りなく0に近しい前回のn-1回目というのは、その副産物αをともなって、次のn番目の反復によって が引き起こされるのは至極当たり前のことだが、この何らかの変化量(nからn-1における)を「精神が反復から抜き取る差異によるほかない」(p198)というパラドックスを言語化している。

生理学的な見地からすると、短期記憶の実験において、それはオシロで脳波を測定解析し、脳の中でどのような活動電位変化が見られるかFFT(高速フーリエ変換)などによって現象をリアルタイムにみることができる。

つまり、精神は電気信号の変化によって引き起こされた何かなのか?

しかし、俺は、それはそれ、としておきたい。

<私>の精神、心は脳のシナプスによる電流によって発生していることが全てではない。

別にスピリチュアル系の怪しい神秘家になりたいわけでも興味があるわけでもない。

ドゥルーズのサイエンス・フィクションはサルトルらの厳格で実践的かつ決意主義的な実存主義哲学書よりも数学的であったり、それとは裏腹にファジーな余白が残されていたりと、現代では受け入れられやすいのかも知れないが、どうしても、バタイユ氏とは比較にならぬほどに「新しい神秘家2」に見えてくる。

それなのに、どこかサルトルの実存哲学を別の言葉、記号でこねくり回しているようにも思えるのだ。

そうした意味で、真に徹底して自分で考え抜いたバタイユ氏は、思想を全て受け入れることは俺はできないが、非常に評価できる。また、現代ではサルトルやバタイユ氏のような強靭なメンタルで言動、行動、全てにおいて首尾一貫し、徹底して自身で考え抜く姿勢を貫く思想家というのは時代的にも、出てこないのかも知れない。

現代思想に全く魅力を見出せないか?というとそうではなく、マルクス・ガブリエルは上手く色々と良いところを組み合わせているから魅力的に思う。

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