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雨が降り

 つめたくもあたたかくもない雨がそぼふる中、ふいに、いつも通る苔の生えかけた階段に目をとめた。僕が赴任した秋からずっとある、階段の所々に溜まった落ち葉の山。それが不思議と気になった。春が来て、夏が来て、また秋になる頃にはすっかり形状を変えるであろう落ち葉。土に戻るには、周りに微生物や小さな生き物がいなきゃいけないし、他の土が多少必要かもしれない。暖かくなれば微生物の活動も活発になるのだろう。ただ朽ちた落ち葉たちのあいだで、生命が蠢いている。それも、僕とは無関係に。もしも僕がこの落ち葉を一気に掃き一掃したとしたら、その生命を奪うわけだ。汚らしい階段からよく手入れされた階段に変わる。僕の圧倒的な力の前では、小さな生き物たちは無力でしかないし、僕は、そんな生命のことを気にかけないだろう。階段を綺麗にする。てんとう虫の子が落ち葉の裏でじっと春を待ち望んでいても、突然の〈神〉つまり僕による嵐によってその夢は掻き消される──僕がボランティア精神を発揮してこの階段の掃除をしたとしたら、の話だ。

 赤ちゃんミミズがいたとする。ミミズは土を肥やし、豊かにするが、あるひとたちにとっては、気味の悪い虫かもしれない。僕もそんなに好きじゃない。予測不能な動き方をするし、触ると異様に柔らかいからだ。同じ理由で蛾や蝶々も僕は苦手だ。カイコは別だ。飛べないから動きが可愛いしぽってりした腹も可愛い。人間の胎児はじぶんの子なら可愛いし他人の胎児を他人の腹を通して触れることはないからよくわからない。だが、可愛い、とおそらく、思う。

 階段を上りながら、どうでもよいことを考え、僕は、深いため息をついた──どうしてこんなにも僕は狂っているのにまっとうなふりをして歩かなきゃいけないんだろう?全裸になって雨に打たれ走り回り居室に飛び込んだとしたら、同僚は何が起きたのか?と訝しむに違いないし、下手をすればお巡りさんに捕まる。それで裸であるがままを感じたかったんです、と正直に答えたとしても、気狂いと決めつけられて、僕の足の裏についた落ち葉については無関心だろうし、ましてや何十という小さな命たちに対する僕が犯すかもしれない罪のリスク──階段清掃──なんて話したところで理解されないだろう。落ち葉を踏みしめたときの感覚を情熱的に捲し立てたとしたら、落ち着いてください、と嗜められるに違いない。

 鳥が近くで鳴いた。僕は落ち葉の裏に蠢く生命に興味を抱いたのではなく、裸足で雨に濡れた落ち葉の感触を確認したくなっただけにすぎない、と僕は階段を上り切ってから気づいた。

雨の中を裸で走り回る権利が、僕にはある、と叫びたい抑えきれない欲望ともいえない衝動が脳天に突き刺さり身体を駆け巡りはじめた。誰かが、僕のことを睨みながら、そんな権利は公序良俗に反する理由で許されない、と言って、僕に服を着ることを押し付けてくる──これらは馬鹿げた春を目前にした妄想でしかなく、服を脱ぐことなく靴を履いたまま、普通に振る舞って、ゆっくり階段を下りてみた。

憲法で保障されてるんです、誰もが自由であり、個々人の身体は個々人のものだ、と。

落ち葉の間から顔をのぞかせた赤ちゃんミミズが僕にそう言ってきた。それで僕は腹が立ち、赤ちゃんミミズが乗っている落ち葉を道路へ無造作に放り投げた。すると怒ったミミズが猛然と──それも僕が生まれて初めて見るスピードで──僕ににじり寄り、耳元で権利の話をし始めた。僕はミミズが苦手だから、払いのけることもできず、話を聞くしかなかった。

 私にだって自由に生きる権利があるんです。欲望のままに土を耕し、やがて干からびるとしても。氷河の溶解、地下鉱物や地下水を掘り過ぎたり、地震があったりしたせいで、地球の地軸が急激に傾いてしまったんです。地軸というのはもともと4万1000年周期で振り子のように傾きを変えていたんです。およそ21度から24度を行ったり来たりする。その傾きによる気候変動が生命や環境に多大な影響を及ぼしてきて、進化そのものにも影響を及ぼしできたのでしょうね。地軸の影響でも気温が上昇する。戦争や紛争も止むことを知らず繰り返している。だから、温暖化も輪をかけて進むかもしれない……。私のようなミミズは干からびる危険に晒され続けてるわけです。それに、灼熱の太陽がもうすぐ爆発する。たぶん五十億年後くらいに。五十億年なんてすぐやってくる。光陰矢の如し、ですから。第一に、あなたの五十億年と私の五十億年とではスピードが違う。あなたが主観でしか感じ取れないあなたにとっての有限な時間の終わり、あるいは、相対的に歳を重ねてやがて白髪になり顔も手も皺だらけになって過去の振り返りたくないほどに辛い出来事も遠い水平線の彼方に浮かぶヨットと変わらなくなるまで、あっという間ですよ。その頃、私が生きていないなんて、決めつけるとしたら、それはあんまりにも身勝手なあなたの感覚の妄想の発露でしかない。第一に、あなたは裸になることすら躊躇するちっぽけなプライドの持ち主だ。私はこのとおり、常に裸です。あるがままでしか存在したことがない。ただ私も服を着てみたいとは思いますよ。服なんて着たら、上手く土を耕せるかわかりませんけどね。それに服なんて着た瞬間、きっと、いろんなルールがおまけでついてくるに決まってる。権利と義務と責任はぜんぶセットなんだから。あなたはじぶんの権利ばかりを主張し正当化するかもしれません。でも私にだってあなたと同じように色んな権利があるんです。あなたがこれまで1ミリも考えたことのない、ミミズなりの権利をね。

 長い時間、話したせいで、赤ちゃんミミズはすっかり弱り、僕の身体から階段の上に落ちてしまった。蕾を膨らませた木の影からそれを見ていたピンクの山鳩さんが赤ちゃんミミズを咥え傘を開いて何処かへ飛んで行った。山鳩さんというのは、僕の前の上司だ。いつも鮮やかなピンクのスーツを違和感なく着こなしていた。数年前に、僕の出した解析データとそれをまとめたグラフを無断であたかもじぶんの成果のようにポスター発表しようとした。僕が問い詰めたら、名前を書き忘れただけだ、と白々しい嘘をつき、面倒臭そうに追加修正した。その夜、互いにわかり合い、僕らは結合体となった。思い出したくない過去の過ちのひとつだ。僕は靴を履いていることも服を着ていることも、今や僕の一部となった前の上司のことも、もはやどうでもよかった。ただ、西の空のずっと向こうの雲の切れ間を飛ぶ山鳩を見つめながら、小さなミミズが、どうにか逃げ切れることを祈った。

あれ? スズキさん、おはようございます。今日は何だか春らしいスーツですね。ピンク、よくお似合いです。ところで、A/Dコンバータのターミナル一台古いのあるから、使います?

唐突に聞き覚えのある春の声が階段の上から、僕を現実に引き戻した。数時間後、オンボロ実験環境に五十万円くらいしそうな機材を荷台に積んだ朗らかで無邪気な研究者がやってきた。動かなかったら……。だとしても、僕は親切に対して感謝し、今日、あのミミズや山鳩さんの分まで生き延び、今日というこのなんの変哲もない平和な世界を乗り越えなきゃいけない──強い使命感に駆られた僕は、何が何でも修理して動かしてみせる、という熱い鉄のような意志が胸の奥底で煮えたぎってくるのを感じた。



この物語はフィクションです。

参考文献
・A Late Cretaceous true polar wander oscillation
Ross N. Mitchell ~, Christopher J. Thissen, David A. D. Evans, Sarah P. Slotznick, Rodolfo Coccioni, Toshitsugu Yamazaki & Joseph L. Kirschvink
Nature Communications 
気候変動の影響で地球の自転軸がずれた──最新研究 アンダース・アングルシー ニューズウィーク日本版


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