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とるにたらないこと2023/02/25

あらゆる存在における恒久的非暴力による共存可能な思考交流ネットワークモデルをぼんやりと考えている。

そんなものがデバイスとしてあればテクノロジーによる非暴力世界が実現可能に思えた。

思考体系を再利用可能なパッケージにして任意の《場》でそれらパッケージにアクセス可能にするにはひとつ以上の共通言語とあるルールに則ったAPIを場から発行すればよい気がする。
いろんな哲学を機械的に理解しやすい環境、Dockerのようなもの。

限られた資源資産(体系付けられた知識)の中での自由度が広がり思考の拡張性に繋がる気がした。

イメージ例

初期のOS的なものは《愛》。
あらゆるパッケージはOSとは独立している。
依存度の高いものも極力切り離す。
しかし背景補完としてサブパッケージとしての依存度高いOS環境がもれなく付いてくる。

そうした《私》環境構築をサポートするユビキタス的なデバイスができたら、どうなるのだろう。

《私》と他者の《私》の通信プロトコルが前述した「共通の言語」のうちの必須のひとつであることに間違いないだろう。

また、そのネットワークに接続できないものの存在は無視される。

経済的貧富による倫理の差が深まるだろうか。
結局は弱者救済ではなく、ある一定以上の知性あるいは経済が賄える環境次第となる。
そうしたところに、哲学者らが介在し、無償でデバイスを配り、Git的にパッケージ、OSのコードは公開され誰でもビルド、インストール、API開発可能とすることを倫理的側面からも保証する。
システムのコントロール権はあくまで有機体にあり、マシンではない。

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とるにたらない妄想をしていた。

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カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』を再読している。

人間の認識が三次元であることを超えられない、と思い込んでいる限り、《大いなる外部》の観測者を設定することはできないように思う。 しかしながら、現在では、量子コンピュータにて四次元以上の理論的な観測が可能だとすれば、そこからアクセス可能にも思えてならない。 カルロ・ロヴェッリらの哲学的宇宙論はそこに近しいものがあるのではないか? 神秘的なものがなくなってしまったのかもしれない。 宗教、思想といった、いわゆる哲学は廃れてしまった、そう思うと、ふと、侘しさを感じた。

因果律は人間の期待値によるものだと僕は考えているため、あらゆる事象は偶発的事象でしかない、と考えている。また、その期待値に近い分布の集合としての偶発的事象を因果とすることの尊さに希望をどうしても抱いてしまう。

意識が虚数だとかいう例えをしているひともいるけれど、それも単なる活動電位変化に過ぎず、虚数、四次元以上を認識することはやはり「今は」不可能なのだろう、と思いたい。テクノロジーの介在によって他者の意識にアクセス可能か?例えば嘘発見器的なものはその原初的なツールかもしれない。あまりに神秘が薄れてしまった。

したがって、哲学は廃れた、かもしれないが、企業倫理の第三者機関や監査的なところで有益になるのではないか、とも思う。

社会学にオブジェクト指向存在論的な要素を絡めた倫理モデルを提唱している本を漁ろうと思った。

ところでカントールは「数学の本質はその自由性にあり」と言った。哲学の本質もその自由性にあり、といったところだろう。所詮は他人の思考である。なぞらえてばかりでは何も生まれない。
非暴力社会実現可能なモデルをいずれ偉いひとが提唱し、具体的に新たな政治的あるいは経済的イデオロギーとして打ち立てるかもしれない。そんな知性の底力を信じてみたい。

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