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蜘蛛の庭 #シロクマ文芸部

珈琲と、突き抜けた青に舞う落ち葉と、揺れる秋桜。
黒ずんだ褐色の滲み、遠くの瓦礫、聴こえない悲鳴。

塵となって消える残骸──ファシストの夢、
かつて蜘蛛が住んでいた崩れた廃墟の城。
軽やかな花々と蝶と鳥──飛べない自尊心の強い蜘蛛の嫉妬が膨張した。

揺れる秋桜を妄想しながらシマノフスキ9つの前奏曲Op.1-7とバタイユ『有罪者』一節からのインスピレーションで書いた短いタナトス的幻想ショートショートです。

これから眠るところだ。眠る前から、私が見た夢が心を締めつける。私は、過ぎ去った夜の夢を、塵となって消える残骸を思い出す。私が好きなのは、花々、陽の輝き、肩の甘美さ……。

『有罪者』G.バタイユ 河出文庫 p190





崩れ落ちた廃墟の見える丘、陽光がかげると肌寒い。
秋がきたよ、と僕は僕の花たちに優しく呟いた。
夏の激しい陽射しのなかで出逢った蜘蛛の記憶を僕たちは地平線の向こうへと追いやった。

 煌めく海、空の青み、僕が羽を広げて舞っていた頃、蜘蛛の滲み出る傲慢さと卑屈さが、どろどろとした流れ出る汚水のように悪臭を放って、撒き散らされているのを僕は舞いながら遠目に眺めていた。

 あなたの花と仲がいいのよ、この城の庭で時々話すの。あなたも来る? 
──蜘蛛はそう言って僕を城の庭に誘い込んだ。
自らの糸でできた伽藍堂の廃墟の城から、もはや出るすべもなく、腹とくっついた頭は自己顕示の欲望に押しつぶされているのが僕の羽は敏感に察知した。僕の花は城の中では咲いていない。僕の花は色鮮やかな蜘蛛が決して見ることのできない世界の外で、ただ、咲いていた。

 城のなかで、僕が蜘蛛に話しかける。さまざまな世界の書物の蜜を哀れな般若の蜘蛛が知りさえすれば、般若の仮面は外され、硬く硬直したあらゆる器官はしなやかさを取り戻し、世界を走りまわることがまたできるのに。と僕は考え、僕はいくつかの書物を示唆した。蜘蛛は激しく身悶えながら、僕を庭へと案内した。無知を隠す──〈傲慢〉、〈蔑み〉、〈憎しみ〉、〈虚偽誇張〉、〈嫉妬〉、〈厭味〉──〈卑屈〉の形相をした仮面たち。

 耳を持たない蜘蛛は僕の話が聞こえなかった。それで蜘蛛は聞かなかった話を空虚な庭の虫たちに穢れた声で叫び続けた。蜘蛛の対峙を放棄した孤独を吐露するかのように。虫たちの〈同調〉する羽の音、淋しい蜘蛛の糸の源泉。蜘蛛の〈自己顕示欲〉と〈承認欲求〉は、彼らの〈共感〉と〈感傷〉的な憐れみと称賛を得ることで、ほんのわずかに満たされる。そうして、吐き出されるねばねばとした糸を蜘蛛は自分自身に巻き付けがんじがらめにしていった。〈決して、あの蝶の羽と花の軽やかさ、飛べる者たちに負けないように〉と地面をうごめく蟻たちを見つめながら糸を吐き、巻き付け、つめたい玉座に座り続ける。

 僕の花がシマノフスキ〈9つの前奏曲Op.1-7〉を奏でて、
塵となった何かの遺骸を憐れむと、
一羽のかりが僕を乗せて僕の花の花びらと舞った。
潮風に揺れる木々の葉は、地面に落ち、
ところどころを色彩豊かな絨毯を作っている。

シマノフスキ 9つの前奏曲Op.1-7

 遥か下に見える丘の向こうの廃墟の城、主人あるじの不在、二度と生成されることのない、けがれた糸の城が崩れていくのが見てとれた。丘にひとり咲く頭をもたげた薔薇が僕に守護星を伝えた──蝶の守護星は〈太陽〉なの、と。
僕は雁に頼んで、薔薇のもとへ立ち寄り、囁いた。
じゃあ、蜘蛛の守護星は? 
──しばらく、考えた薔薇は、気をつけなさい、あの蜘蛛は呪われてたの。彼女は〈卑屈〉の星が守護星なの。あの庭では、誰ひとりとして、大きくなれないの──殺されるから。
と言って傷ついた僕の羽のために、沈黙のなか、音のない涙を流した。きみの守護星は? 〈〉よ。

 満月にちかい白い月が昇りはじめ、僕は薔薇にそっとおやすみの接吻をして薔薇の温かな雫を口に含み、雁と僕の花の花びらとともに、また、空を舞う。僕を大好きな薔薇が眠る頃、僕はまたあのうだるような暑さの中の庭の記憶にさいなまれた。

 庭を案内するわ──しゃがれた声で蜘蛛が僕にそう言ったとき、僕は抵抗した。魚影を追うことに飽きたとんびが僕の頭上、遥か高くで舞っていた。あなたの花も咲いているのよ、庭を案内するわ──僕は鳶を呼び、僕らは花の待つ庭へと、蜘蛛について行った。まだ、崩れ落ちていない頃のあの廃墟の庭で。鳶は警戒し、注意深く蜘蛛に接した。花は無邪気に蜘蛛を信じた。蝶の僕と鳶と花のたわむれに嫉妬する蜘蛛は理由なき〈憎悪〉を抱えきれず、僕の羽にぬめぬめとした糸── 飛べない蜘蛛のルサンチマン──を出し始めた。

 庭には色が付いていなかった。モノクロームの写真のような庭は風がそよぐこともなく、暑さで僕の羽は汗にまみれ、僕の花がその汗を舐めるのを見て蜘蛛の〈憎悪〉はなお一層に膨らんだ。〈計画〉どおりに種を撒いてるのよ。〈計画〉どおりに種を撒いて、〈計画〉どおりに花が咲いて、〈計画〉どおりに、枯れていくのよ。と蜘蛛は庭について語った。鳶が蜘蛛に尋ねた。──じゃあ、〈計画〉に〈反抗〉する者たちはどうするの? 他の花がいいって子たちは? 種がなにかの拍子に風が吹いて、足りなくなったらどうするの? と。僕が糸をほどきながら地面をみると、ちいさな骨がたくさん散らばっていた。酸化して黒ずんだ赤い誰かの涙で地面は染まっていた。叛逆した者たちは、わたしの糸で巻きつけてわたしの毒に浸すから大丈夫なの。わたしよりも〈権力〉のある黒いからすのすばらしい〈規則〉に、わたしも、わたしより能力の劣る他の花や虫たち、皆〈隷属〉して、〈計画〉どおりに、わたしたちは従っているだけよ。と蜘蛛はしゃがれた声で答えた。この庭が、高くそびえ立ついくつもの灰色のコンクリートの塀で区分けされていることに、そのときになってようやく僕らは気がついた。風がわずかに届く場所は蜘蛛が認め聞こえない耳を唯一開く、〈承認〉された種類の何かたちによって占拠され、風とおしと水捌けの悪い場所は、蜘蛛が蔑んで見下す種類の花や虫たちが、同族どうしで、まとめてられていた。コンクリートの塀と塀のあいだは隙間なく蜘蛛の糸が張り巡らされているのも、僕らは見た。塀の外へ出たのだろう──ちいさな蛾が蜘蛛の糸で動けなくなっているのを見て、花が尋ねる。みんな死んでるの? と。
すると蜘蛛は膨らんだ〈憎悪〉の顔で、僕の羽をむしり取ろうとした。激痛が走り、僕は顔を歪めた。はぁ? わたしはあんたより頭も悪いしあんたが強要した出鱈目でたらめの蜜も理解できないわよ、あやまるつもりなんてないけど。と、言いながら。
 僕と花が傷つけられはじめたことで、蜘蛛の〈計画〉が僕を蜘蛛の糸で縛り付けることだ、と鳶は気づいた。このまま、ここにいてはいけない、前へ逃げて。前へ。後ろを振り向くことなく。やがてこの蜘蛛は冬に耐えきれず、死ぬけれど、つぎの蜘蛛がやってきて、完全におまえたちを食い尽くす。だから、前へ逃げるんだ。と、〈自由〉の鳶が鳴いた。鴉が何羽か塀にとまっているのも見えた。彼らは蜘蛛を働かせ、餌にありつく。承認された者たちの仲は決して良いようには見えなかった。彼らは彼らで、互いに牽制しあい、各々に、各々の都合で、蔑まれた区分の支援という名の支配をし、その区分どうしの対立は彼らの生の糧のための肥料となった。

 傷ついた羽が黄金きんいろの太陽のひかりを浴びて、美をかたちどる。僕は飛べる時間がもうそんなにないことを知った。闇がくれば夜の星たちが囁きはじめ、僕に、薔薇と秋桜があれからどうなったかを、教えてくれるだろう。

 〈卑屈〉は〈嫉妬〉を呼び、〈憎悪〉を生み、とどまることを知らず、蜘蛛の硬直化がすすんだ。僕らが動かなくなった蜘蛛を見て、大丈夫なのか、と尋ねると、蜘蛛は、低くしゃがれたうめき声をあげて、僕らから最後の叡智を吸い取ろうとした。この庭のあと、玉座の間を案内するわ。わたしの玉座、わたしの大事な大事な玉座を見せてあげる。と蜘蛛は、僕らをまた騙した──不実の蜘蛛、糸を、〈傲慢〉と〈嫉妬〉の糸を体じゅうに巻き付けながら。
 やがて、蜘蛛はみずからの糸によって身体のすべてがぼろぼろになり、かさかさした表面はさらに内部を乾燥させていった。僕は蜘蛛に蜜をたくさんあげようとした。蜜が時間をかけて浸透すれば、蜘蛛の器官はそれぞれが有機的につながり、再び機能しはじめ、聴覚がもどるはずだった。これを飲んだ方がいいよ。と僕が蜘蛛に注ごうとした。蜘蛛の自尊心と承認欲求の膨張が〈怒り〉の感情へと等価交換された。感傷に支配された蜘蛛は遂に思考することを完全にやめた。鬱々とした音楽、躍動と恍惚に満ちた音楽が繰り返される制御不能な壊れたラジオのようにして、蜘蛛はしゃがれた声を僕の耳にがなり立てた。あんたにわたしを馬鹿にする権利なんてないわよ、そんな蜜、わたしに理解できるわけがないのを知って垂れ流そうとしても無駄だから。と言い、〈孤絶〉の闇に覆い尽くされた玉座へ僕らを案内した。
 玉座は錆びた青銅でできており、どこまでも冷たく、天井は崩れ落ち、月のあかりが射し込んで、ぼんやりと孤独な玉座を照らしていた。出て行ってよ、あんたたちといると気分が悪くなる、わたしを崇めない汚らしい蝶と花と鳥。出ていってよ! と最後の力をふりしぼって蜘蛛は自慰することで、あらゆる欲望をみたしてくれる恍惚感に浸ることで、あらゆる罪悪を忘却の彼方へと押し返し、みずからの糸と毒によって干からびていく感覚のない激痛を迎えた。鳶が僕らを乗せて崩れ落ちた天井から蜘蛛の糸の廃墟の城から飛び立った。白い月をめざして。下の方で誰かの泣き声が聞こえた気がして、僕は穴の下にある玉座を見た。蟻たちが塵を運ぶ姿が見えた。

 秋がやってきて、花はまた生まれ、そして、花はまた枯れてゆき、僕の羽に美しい朽ちた花びらの跡をのこした。僕は彼女の痕跡を雁に託した。僕がやがて土に帰る頃、雁がどこか見知らぬ土地に、北の肥沃な、赤くない、黒いあの大地に、彼女の痕跡をそっと埋めてくれるはずだ。ファシストたちのいない朝がやってくる。僕は眠りたかった。真夜中、一万キロを飛んだ雁は、北の大地で、疲れた男が樫の木にもたれ、つぶやくのをじっと羽を休めながら聞き入っていた。霧の濃い朝、男はもう二度と語ることしなかった。

雁は浮浪者の夢をそっと置いた。月と太陽のあいだに。

 塵となって消える残骸

  色褪せた景色──秋桜コスモスが群生する廃墟の庭
  季節外れの蝶
  じぶんの糸にからめ取られながら悶え苦しむ蜘蛛
  空を飛べない嫉妬、廃墟の城の王の傲慢
  情緒不安定な蜘蛛は蝶を騙して巣に誘い込む

  蝶は不誠実な蜘蛛の八本の足を羽で叩き潰す
  墜落し、蜘蛛は細い糸の城から解放され
蟻たちがやがて蜘蛛を運ぶ
  蝶の頬は紅潮する
  主人あるじのいない蜘蛛の巣の中で

  僕の夢──蝶になること、蝶々になってあの糸の城の王になること。

浮浪者の夢、塵となって消える残骸

なだらかな色褪せた丘の向こうで雷鳴が轟く。
片翼の蝶が最後の力を振り絞り、 
雁と別れ、
天へと墜落し舞い上がる。
──詩が書かれた枯葉と朽ちた花びらが落下する蝶の羽をやさしく撫でて、
両腕を広げた色づく大地と穏やかに煌めく海。

波飛沫の残響の鐘の音──罰を受けたがり罪を忘れたがる偽善者たちの声──が白く透明なちいさな無数の泡をつくり、気泡が割れ、
ちいさな蜘蛛たちが生まれては、彷徨う。
子どもたちの朗らかな笑い声が波の音を消した。

*この物語はフィクションです




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