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八木雄二『神を哲学した中世』読んだ

中世哲学入門シリーズ。

読みやすくてよかった。

形而上学や論理学的なこと、というか悪い意味でのスコラ学的なところに深入りしないで、どうしてあのような煩瑣な理屈を必要としたのかに力点が置かれている。

したがって、中世の人々の思考に入り込むことになる。大衆がふつうに神の実在を信じていたこと、修道院や大学の学者たちの理屈の組み立て方など。

なぜ中世の人々の思考を学ぶ必要があるかというと、あの時代に西欧の精神性が決定されたからである。スコラ学の多くはいまや失われてしまったが、時代を越えて影響を与えていることもある。

あるいは自分のそれとは全く異なる思考のフレームを知ることで、自らがはまり込んでいる思い込みから一時だけ自由になれる。

まず現代の日本人が気をつけるべきこととして、理性の意味がだいぶ違うということである。理性と訳される事柄は、しばしば情動的であったり、主観的であったりする。自我とか自己のほうが意味としては近い。だからEns rationisを理性的存在ではなく、理虚的存在と訳す必要があるのだ。

また見えないものが存在するか否かは大問題だった。

ソクラテスという人間が存在するのであって、人間という普通名詞や概念が実在するのではない。普通名詞や概念はみんなの、あるいは個人の頭の中にあるだけ。

もしこのような現代人的な理解をするならば、神という普遍が実在しないことになる。当時の人々は神の実在を信じていたから、普遍は実在すると考えるほかなかった。

しかしアリストテレス風の学問が流入して、若者たちが普遍の実在を疑うようになると、神学者たちは真面目に神という普遍、一般名詞の実在を論証しなくてはならなくなった。

さらに神という普遍は一でなくてはならない。上位のものはより少なくあるべきで、最高位の存在である神は一でしかありえない。

この一と個人の一が異なるのかどうかが、スコトゥスの存在一義性や個体化原理なのであるが、ペルソナという日本人には理解しにくい概念と絡むので、いまだに私にはよくわからない。


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