見出し画像

リザードンとニホンカナヘビ

見出し画像はニホンカナヘビの交尾をたまたま見かけて撮影したものである。黄褐色の方が雌で黒褐色の方が雄である。雄は雌が繁殖可能であると確認すると、このように後ろ脚付近を掴み、腹部に噛みつく。雌雄の差異は本来側面頭骨のハリの違いや、尾の基部のふくらみなどによって見分ける。この写真の例のように雌雄で体色が極端に異なるのは恐らく偶然である。

PokemonGoのCMなのだが、これがどうにも気になる。内容はこうである。公園に遊びに来た親子が、捕まえたニホンカナヘビを見せびらかしている兄ちゃんとそれに感心している子供たちを見る。娘は「あの人すごいね」と、父親はそれを受けて複雑そうに「そうだね」という。娘は親の気持ちを感じ取ったそうで「人は人、パパはパパだよ」とやけに達観したことを言う。そこでPokemonGoの宣伝が入って、最後にスマートフォンに映ったリザードンを娘に自慢げに見せてCMは終わりである。

「人は人、パパはパパ」というところまでは別にいい。子供が親を諭すというのはよくある構図だし、そこには疑問を挟む余地はない。私が気にするのはその先で、ニホンカナヘビの対置としてリザードンを置いている、そこである。

私はPokemonGoをやっていないから、詳しい仕様は知らない。もしかしたら、リザードンは捕まえるのがめちゃくちゃ難しいのかもしれない。ドラクエでいえばヘルバトラーぐらいのレアリティがあるのかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、リザードンはどんだけ捕まえても同じリザードンでしょう、という思いが拭えない。PokemonGoは人間が作ったものだし、そこに含まれているリザードンも人間が意図したものである他ない。そこには偶然性というものがない、と私は思うのである。

翻ってニホンカナヘビを考えてみる。ニホンカナヘビは何匹とっても同じではない。図鑑に載ってるニホンカナヘビという種は、誤解を恐れずに言えば、存在しないと言っていい。オレはニホンカナヘビだ、という動物はどこにも存在しないし、ニホンカナヘビとしての性質をあまねく備えたイデアとしてのニホンカナヘビも、またいない。それは人間が勝手につけたもの、あるいは創造したものであって、リザードンと同じようなものである。別にニホンカナヘビという種名がなんかのきっかけでリザードンになっていても、何も問題はない。

ニホンカナヘビは百匹捕っても、百匹ごとにそれぞれ違う性質を持つ。だからイデアは存在しないのである。それが種の個体差というもので、そこがリザードンとの何よりの違いである。リザードンは百匹捕まえても同じだと私が言うのは、そういう意味での同じである。ステータスが微細に差があるというのは、それも人間が意図した範囲での違いであって、ニホンカナヘビの個体差とは問題の階層が全く違う。自然界での個体差は、人間が意図することはできない。それは我々が日々自分の顔や体に文句を付けて、時には整形などに走ったりすることからもよくわかる。

件のCMではリザードンとニホンカナヘビが対置される。その構図だけなら、私は絶対にニホンカナヘビの方を取る。上に述べた個体差というのも理由の一つだし、なによりリザードンならその内自分でも同じのが捕まえられると思うからである。また、ニホンカナヘビは今の都市近郊では、それほど見られないという貴重さもある。ニホンカナヘビは環境の影響を受け、いつかは消えるかもしれないが、リザードンは多分半永久的に残るし、ゲームのサービスが終わってもどこかでアーカイブ化されたデータが見れる。子供がここまで考えるかどうかは知らないが、長期的に見れば、そういう風な楽しみ方も、リザードンに関しては出来る。もっとも「人は人…」などという聡明な子供だから、これくらいのことは考えているかもしれない。

なら、このCMでリザードンとニホンカナヘビを同じ尺度で語れる要素はなにか。個体差や環境といった面では、ニホンカナヘビの方が価値がある。それならリザードンのどこに求めるだけの要素があるか。それは思うに、対象にあるのではないのではないか。つまり、リザードンもニホンカナヘビもそれ自体に価値があるのではない。それ自体に価値を求めるとすれば、ニホンカナヘビに利があるのは、上に述べた。ならどこに価値があるのか。それはその対象に向かうまでの過程である。ニホンカナヘビならそれを捕まえるまでの過程、リザードンでも同じように、その過程にこそかけがえのないものとしての価値がある。件のCMの親子ならば、その親子にとってかけがえのない物語が、リザードンを捕まえる過程に生まれているのかもしれない。

そのかけがえのない過程が、リザードンを捕まえるにあたって存在しているのであれば、それはニホンカナヘビがどうこう言うことは本来必要ない。なのにCMではその過程は全く描かれずに、同じもののように対置している。そこが私はどうにも気に食わないのだと思う。ニホンカナヘビは捕まえるにはなかなか苦労する。すばしこいし、草むらの中に入られたらまず見つけることはできない。そんな中で頑張って捕まえたというのが、中々かけがえのないもので、そういう経験は一生忘れないものになるのである。リザードンを捕まえるということ、或いはPokemonGoにそうした側面があるのか。経験という側面を照らせばきっとあるはずで、それこそああした位置情報ゲームアプリに求める価値といえるのではないか。親子が関わるなら、なおさらである。

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