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じさまとばさま

今日は敬老の日。
私にはお祖父様が2人、なんと、お祖母様まで2人いる。
え?みんな樣にも2人ずつ?
そいつぁ奇遇だ。

お祖父様&お祖母様、計4名様とも既にお空の上にご案内されてしまった。

父が生まれ育った家庭は複雑であり、父と祖父母の関係は悪くもないが良好でもないといった感じであった。

お祖父様はとてもとても無口で、ほぼ喋らない人だったと記憶している。
話し声は低く小さく、幼い私には少しだけ怖い存在であった。
いつも着物姿で胡座をかき、テレビに繋いだイヤホンを片耳に入れて囲碁をしている姿しか見たことがない。
晩年ボケ始めた頃、お祖父様は電気のヒモを長ーーーく延長するヤツの先端に付いたを耳に入れて畳に座っていた。
お部屋の電気と接続されたお祖父様はとてもシュールだった。

電気と繋がっているだけなら特に問題なかったが、お祖父様は次第に行く宛もなくご近所を彷徨ったり、時にはかなり離れた街まで遠征に出るようになってしまった。
困り果てたお祖母様が、お祖父様のことを山の奥の奥のそのまた奥の施設へと入居させ、お祖父様はその施設からお空へと還っていった。

お祖父様は最期まで私の父のことだけはきちんと認識しており、父の名前を泣きながら呼んでいた。
その声はやはり低く小さかったが、何故か力強くもあり私は少し悲しかった。
父はお祖父様が亡くなって暫くしたあと、銭湯で頭を洗っているときに突然ものごっつい悲しみに襲われ、嗚咽がもれるほど泣いてしまったのだそうだ。

お祖母様はとてもとても自由奔放で気ままで変わった人だった。
嘘泣きが非常に上手く、あちらこちらで色々な揉め事を起こしておられた。
あるとき私たち家族が遊びに行った際、お祖母様は床にどべっと座ったままテレビを観つつ掃除機のノズルを前後に動かしていた。
いかにもやる気のない掃除姿であった。
しかもよく見ると、お祖母様が手にしているノズルはホースの真ん中らへんで完全にズッポリと外れていた。
基本、なにごとも適当で大噓つきなお祖母様であった。

見栄っ張りなお祖母様のお料理はお高い材料が惜しげもなく使われていたため、そりゃあもう美味しいものであった。
筑前煮や唐揚げ、お稲荷さんや海苔巻に混ぜご飯。
どれもこれも美味しかった。
でもたまに、とてもじゃないが食べることが出来ないものもあった。
不味いのではない。
お祖母様はお料理の合間にハンドクリームをギトギトに塗ってしまうという奇行があり、お稲荷さんからハンドクリームのローズやらフローラルやらが香ってしまい、食べることが出来なくなってしまうのだ。
そして手を付けずにいると、お祖母様の嘘泣きが始まる。

そんなお祖母様は、まだまだ頭も体もしっかりしているうちに(どんな手を使ったのか知らないが)地元に新しく出来た特別養護老人ホームへとさっさと自ら入居してしまった。

お祖母様は施設入居後も「目が見えなくなってしもた。」だの「これ(歩行器)がないと歩けなくなってしもた。」だの「心臓のガンと言われてしもた。もうダメみたい。」だの様々な嘘を吐いていた。
大人になっていた私は「あらあら」「そいつぁ大変じゃないか」「お気をつけるんだよ」など面会のたびに適当な相槌を打ってお茶を濁していた。

目が見えないと言いながら遠くにいる誰かを見つけ、歩行器を放置し「あんた!この間の件だけどさ〜!」と軽やかな足取りで駆けていくお祖母様の後ろ姿をみて「この方はとてつもなく長生きしそうだ…」と私は案じていた。

案の定、103歳まで生きた。

90を超えたあたりでボケ始め、100歳を超えたあたりから「あぱ、あぱ、あぱーーー」とオードリー春日のようにしか話さなくなったが、結果オーライで可愛らしいお祖母様に様変わりした。
良かったと思う。
アパがなければ意地悪で嘘つきなクソお祖母様で終わるところであった。


私にとって大きな存在、より身近な存在だったのは母方の祖父母である。
母の実家は福島県の山奥も山奥、住んでる村人の名字がほぼ全員同じという田舎であった。

お祖母様のお名前は「フミ」であったが、村に同姓同名が数名いたため途中から「カネ」という名前に変わったそうだ。
周りから「おフミちゃん」と呼ばれているのに表札には「カネ」と書かれていることが、幼い私には不思議でならなかった。

しかも「カネ」て。


どうして「カネ」にしたのかは聞かずじまいとなってしまった。

おフミちゃんはお嬢様育ちで、子どもの頃から村でも評判の美人さんだった。
ちなみに私はお祖母様に激似である。

(美人の)お祖母様に激似である。

とても大事なことなので2回書かせて頂いた。

一方お祖父様はお勉強は得意だが、とんでもなくやんちゃ坊でイタズラばかりしている困ったクソガキ子どもだったそうだ。

やがてお祖父様はお祖母様と結婚した。
山奥の土地を開墾して、夫婦2人で作ったお家に暮らし始めた。
お嬢様育ちのお祖母様は、たばこがメインの農家(あと酪農を少し)の嫁として生きることになった。

ちなみに今もそのお家はしっかりと残っており、長男である母の弟家族が暮らしている。
大きな玄関のガラスの引き戸やランプ、掘りごたつや井戸など、全て母が子どもの頃と変っていないという。

福島のお家のランプ

お祖母様が結婚して間もない頃、ちょっとした事件が起きた。
お祖父様はその日、村のどなたかの結婚式にお呼ばれして出かけていった。
帰りの遅いお祖父様のことをお祖母様が案じていると、外からご機嫌な歌声&ジャブジャブッと水が跳ね上がるような音が聴こえてきた。
お祖母様が恐る恐る外の様子を見に行くと、ベロベロに酔っ払ったお祖父様が田んぼの中を歌いながら歩き回っているではないか。
昼間、せっかく田植えをした田んぼの中を。

お祖母様は草履のまま駆け出しお祖父様を止めたが、お祖父様に大外刈りで田んぼに倒された。
本来なら秋に稲刈りをするところ、嫁を大外刈りである。

普段のお祖父様は大変に几帳面で働き者で、お祖母様や母たち姉弟にも優しい人だった。

ただ、お祖父様は立派な酒乱であった。

弱いのに酒を飲んでしまうのだ。
そもそも酒と合わないのだ。
毎晩ではないから余計に酒の効きも良いのだろう。
(のちに私自身が経験したので断言できる。)

酒に酔うと泣き、笑い、歌って踊り、最後にはブチギレる。
酔って暴れたお祖父様が、牛小屋から牛をお家の中に招き入れたお話はこちら。

牛さんのエピソードの他にもお祖父様の酒乱エピソードは数知れずである。
私が好きなエピソードのいくつかを、みんな樣ともぜひ共有したいと思う。

常にタバコを手放さないお祖父様。


ある冬の日。
日が暮れて夜が更けても帰って来ないお祖父様をまたまたお祖母様が案じていると、近所のかたが「ヨシあんにゃ(お祖父様)が追分けで呑んだくれてる。ありゃあもうダメだ。」と教えに来てくれた。

お祖母様は仕方なく山を1つ越え、お祖父様を迎えに行くことにした。
自分の足音がたてるカサ、カサ、カサという落ち葉の音がおっかない。
冬のお月さまは煌々と光り、お祖母様の歩く枯れ葉の道を照らしている。
しばらく歩いたころ、お祖母様は自分の足音以外にも枯れ葉がガサガサと音をたてていることに気づく。
「しし(猪)か…まさか熊ではなかんべな。」

恐る恐る歩を進めるお祖母様の目に飛び込んで来たのは、狸でも猪でも熊でもなかった。
そこにいたのは「おお、さぶいさぶいさぶいさぶい…」と呟きながら、枯れ葉をお布団のようにガッサガッサかけて山道に寝そべるお祖父様であった。
お祖母様は呆れながらも枯れ葉をかけるのを手伝ってあげたそうだ。
そうして酔いが醒めるのを待ち、もう明るくなり始めた山道を2人で歩いてお家へと帰っていった。

子どもが生まれてからは酒乱に拍車がかかったようだ。
どれほど一生懸命にたばこを育て、米や野菜を育てても、当時の家計というのは決してラクにはならなかった。
お祖父様は酒乱ではあるがギャンブルや女遊びなどはせず、決してお金にだらしない人ではなかった。
ただ酒にめっぽう弱く酒乱なだけだ。
お金の苦労や心配から、時折お酒を飲んでは暴れていたのかもしれない。
帳簿つけをしながら囲炉裏端で頭を抱えているお祖父様の姿を母は鮮明に覚えているという。

あるとき、家で酒を飲んで大暴れしたお祖父様は膝を豪快にブッ裂く大怪我をした。
傷口から血は吹き出し、いつまでも血が止まる気配はなかった。
「父ちゃん、これは医者樣にすぐ診てもわらねばならね。」と近づいたお祖母様を、またもプロレス技で締め上げるお祖父様。
ジャンルとしてはファイター系酒乱である。

お祖父様は怯える母たち姉弟に「酒と味噌と砂糖もってこぉぉぉい!!」と命じた。
酒をじゃぶじゃぶ傷口にかけ「こーんなものはこうしとけば治る!!兆治(お祖父様の父上)の馬鹿野郎が!!」とパックリ開いた傷口に、あろうことか味噌と砂糖をゴシゴシと擦り込んだ。
そして、そのままバタリと畳に倒れ大いびきで眠ってしまった。

翌朝お祖父様はうめき声をあげ、のたうち回っていた。
その日は子どもらを映画館に連れていく予定であり、母たちは「今日の映画は無理だろうな」と思っていたが、お祖父様は元気なく「映画に行くぞ」と子どもらを連れ出した。
映画館に向かう途中、お祖父様はしっかり&ちゃっかりと医者に寄り処置を受けた。

映画館では子どもらを見やすい座席に座らせ、お祖父様は最前列に横たわり「うーん…うーん…」と相変わらずうめき声を上げていたそうだ。
母はその時に観た映画のタイトルも内容も全く覚えておらず、思い出すのは「父ちゃんの着物の柄とうめき声だけ。」と話していた。
もう、誰か祖父のことを映画化してほしい。

東京で働く母の元に洋装で現れたお祖父様


私が物心ついたときには、お祖父様という人は常に穏やかで面白く優しいだけの人になっていた。
というのも、脳梗塞を発症し酒を1滴も飲まなくなっていたからだ。
お祖父様は常に座椅子に座り、そこからお庭や遠くの山々を眺めていた。
お祖父様の横には小さな箱があり、その中にはハイライト🚬とマッチ、黒飴と太田胃散が入っていた。
このお祖父様は農作業のとき以外は和装であり、着物の袂にも飴やハイソフトというキャラメルが入っていた。
お祖父様と手をつなぎお散歩に出ると、黒飴やキャラメルを食べれて嬉しかった。
お祖父様の手は働き者のゴツゴツとした大きな手だった。

「かをりはほんにめんこいめんこい。足なんてのはビッコでも歩けなくなっても、もし切らねばならなぐなってもなーんもさすけねえ(差し支えない)。めんこいめんこい。」
生まれつき足に病気があった私に、お祖父様は何度も何度も歌うように言ってくれた。

私は優しいお祖父様のことが大好きだった。

私が中学3年生の冬、お祖父様はくも膜下出血で亡くなってしまった。
お祖母様に「もう寝る。あとでカボチャの煮たのとサッポロラーメンな。」と言って、草履に履き替えトイレに行ったところ、その場で倒れてしまった。
異変に気づき駆けつけたお祖母様に「おっかねえ。おっかねえから離れるな。手を握ってろ。」と言ったのがお祖父様の最期の言葉となった。

その時のことを「いやいやなんと、最後の最後まで手のかかる父ちゃんだったなや。」と何度も何度も話すお祖母様は、いつも涙ぐんでいた。

お祖母様は豊かな感受性をもち、美しく愛情深い人だった。
娘婿(私の父)のことも本当の息子のように関わり「ほんにほんに。なーんと困った婿さまだ。」と叱りつつも可愛がっていた。

たった1度だけお祖母様が本気で「このやろ!!こっちさ来い!!」と私の父を怒ったことがある。
父がお祖母様を車でお買い物に連れていこうとしたときのこと。
まだ完全にお祖母様が車に乗っておらず、お祖母様の右半身が外に出た状態のまま、父が車を急発進させてしまったのだ。
お祖母様のハコ乗り(?)を見るのは初めてだった。
慌てて車を停めた父に向かって先ほどのお祖母様の「こっちさ来い!!」である。

お祖母様も私のことを殊更に可愛がってくれた。
小さい頃は畑仕事をするお祖母様の傍にまとわりつき、保育園での出来事を細かく報告していた。
「かをりの初恋はともひろくんで、絵が上手かったんだよな?結婚するんだったのになあ。」と、大人になってからもからかわれた。

大人になってからは掘りごたつでお菓子を食べながら仕事や恋愛の話や父の悪口で盛り上がった。
お祖母様が涙を流して笑ってくれるのが、私はとても嬉しかった。

私たちが幼いころ、夏休みや冬休みなど長い休みには孫たちが大勢で福島のお家に泊まりに行っていた。
皆が一斉にきて一斉に帰っていくことをお祖母様はとても寂しがっていた。

庭にたくさん残った孫たちの足跡をみて「これは◯◯の足跡…これは△△の足跡…あ、これはかをりだな。あといくらもなくなっちまったなあ。」と寂しそうにしていたことを叔父から聞いた。

日本昔ばなしに出てくる優しい優しいおばあさんそのものであった。

「おばあちゃん」と聞くと、私は福島のお祖母様が浮かぶ。私にとって「おばあちゃん」は福島のお祖母様だ。
大好きなお祖母様も心臓の病であっけなくお空へと還ってしまった。
「ばあ樣の様子がおかしい」と叔父から連絡を受け、東京から大急ぎで福島へ向かったが間に合わなかった。

病院のベッドで眠るお祖母様には赤ちゃんのかぶるような真っ白なレースのひらひら帽がかぶされていた。顎のあたりに大きなリボンまで結ばれており、誰からともなく笑いが起こってしまった。
私たちは赤ちゃんキャディーと呼んだ。


そんなこんなでお祖父様もお祖母様もたくさんの思い出と愛情を残して空へと還ってしまった。
驚くのは福島のお祖父様が亡くなったのは69歳、お祖母様が亡くなったのは81歳であり、まだまだ若かったということである。

私の父は82歳、母も70歳であり、お祖父様とお祖母様が亡くなったときの年齢を既に越えている。
私にとって当たり前のように父は「父さん」であり、母は「お母さん」であり、正直まだまだお年寄りという気がしていない。
だが、父も母も言うなれば「じさま」「ばさま」の年齢なのだ。

時間はひっそりと静かに、それでいて着実に流れ続けており、必ずいつか人生を「おしまい」とする日がやってくる。
お祖父様やお祖母様がそうだったように。

たくさんの愛情を注ぎ見守り続けてくれたお祖父様お祖母様たちを想うと同時に、今は目の前に当たり前のようにいる父さんと母さんにも想いを寄せる、そんな敬老の日を過ごそうと思う。

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