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他人を変えようとすること①

1.はじめに 

 あなたは他人を変えようとしたことがあるだろうか?少なからずあるのではないだろうか?自分勝手な欲望のために都合よく、あるいは、家族間の家事のバランスをとるため、あるいは、仕事の関係で仕方なく、あるいは、社会正義のために声高に、あるいは、誰かの人生のために諭す時。

 なぜ、あなたは他人を変えようとしたのか?その時、あなたはどのような状況に置かれていたのか?その他人と、どんな関係を結んでいたのか?何について、どういう所からどういう所へ変えようとしたのか?それで、その結果、どうなったのか?思い出してみて欲しい。

 今回から始める一連のエッセイは、そうした、他人を変えようとすることについて、僕が僕なりに考えたことをまとめたものとなっている。まだ、若く、経験の浅い僕だから、考えの甘い所や、考えの行き届かない所があると思うが、それは、ご容赦願いたい。

 エッセイはあるエピソードとその振り返りとなっている。多少、僕が哲学肌なので、使いたくてしょうがない、最近習った、哲学の考えを差し込むかもしれない。ただ、僕はそれを悪いとは思わない。なぜなら、哲学が生活を助けないなら、その哲学は嘘ではないかと思われるからだ。

2.O君とのエピソード

 僕は今、広島県に住んでいる。大学は東京の大学に行ったので、大学を出た後、故郷に出戻った形だ。広島県は、20歳~24歳の若者が多く転出する県なので、僕の出戻りはとても珍しい。

 高校時代の僕は、とにかく広島での人生に嫌気が差していたし、家族との不仲、というより、不干渉を思うにつけ、早く家から逃げ出したかったので、他県の大学を目指して出て行こうとした。浪人の末、僕は東京の大学に受かり、広島から逃げ出したはずだった。

 僕は大学時代のほとんどを鬱状態で過ごした。GPAは1~2.5の間を低空飛行していた。四年生になって、取らなければならない単位が山積みで、正直、就職どころではなかったし、就職に立ち向かえるような心理状態でもなかった。

 甘えと罵られればそれまでだ。多分、それまでの人生で上手く甘えたり、自分を大切にしてこなかったりしたツケが回ってきたんだと思う。

 だから、広島に帰ったのは、実家へ経済的に寄生するためだった。僕はそれについて、僕個人の家族史から、正当化する理由を生み出し、心の不調も言い訳に使って、就活もせず、その後、1年と2か月に渡り、実家でひきこもりのニートをやった。

 大学時代、僕には幾人か大切な友人がいた。その中で、大学2年の時に意気投合し、大学3年と4年の時にとりわけ仲の良かったO君がいた。

 彼は人間の本気さや誠実さ、志のあり方を高く評価し、また、人間の能力や人格について分析、社会の中で、自分がいかにして活躍するかを必死に考えている人だった。自分と他人をよく比較し、自分を鍛錬することに熱心だったし、他人とどう付き合うべきか悩んでいた。

 また、彼も、家庭や家族関係に問題を抱えていた。無理解な母と専制的な父、そして、妹。妹とはそれなりに仲が良いらしいが、両親との関係についてあまり良い話を聴かなかった。特に、大企業勤めの専制的な父が、かなり暴力的で、「東大に行け」と、勉強を強いるような人だったとか。

 僕には父がいなかった。それが、僕の1つの重荷だったが、逆に、父がいることによって、それが、重荷になる場合があるのを知った。

 僕は彼を良く思っていた。僕は彼の真剣を笑う人たちを嫌ったし、僕は彼の人生を応援しようと思った。彼が悩めば、相談に乗った。でも、彼は論理的な思考力の高い人だったから、僕はただ傾聴するだけで良かった。彼を見守り、彼の話の壁役に徹することが僕の役目だった。

 では、僕は彼に何を期待していたのだろう?僕は彼のどんな所に惹かれていて、交友関係を保とうとしていたのか?

 僕は彼の真剣が好きだったし、僕も他人との関係に悩み、方法は違えど、僕は僕なりの方法によって、社会貢献する道筋を探していた。僕は多少風変りと評されることが多く、しかも、僕自身も、僕の奇妙な志向性に悩んだりしていた。僕は彼を、社会を生き抜く同士と思っていたのだろう。

 僕の他者との関わりに偏りがあるとすれば、それは、曾祖母のせいだと思う。曽祖母は幼い僕の母も同然だったが、彼女は与えるだけ与えて、自分の膝元に子ども置いておきたがる人だった。つまり、母権を振るいたがる所があり、それは、彼女が年老いたことと無関係でなかったと思う。

 だから、O君を含めた幾人かの友人に対する時、僕は、曽祖母が僕に対して関係した時のように、僕は彼らに奉仕し続けたし、それで、彼らを僕の下に縛り付けようとしたりした。それは、僕の中で他人と安定した関係を持てた最上のモデルだったからだと思う。

 そして、友人関係とは、そんな、母権を振るって、縛り付けるようなものではなかったのだと振り返る。しばしば友人関係に問題を生じさせた。

 僕が4年生になっても、卒業しても、なかなか重い腰を上げず、就職もせず、進学もしない所を見兼ねて、直接会った時、あるいは、web会議で話す時には、いつも僕の将来について言及し、どうにかするよう説得した。O君はかなり熱心に僕を説得し、現状の打開をさせようとした。

 ここには、僕がO君に対して、与え過ぎようとしたこと、彼から何も貰おうとしなかったことが、一つ、大きな問題として絡まっていたのだと思うけれど、つまり、友人関係を対等なものにしようとする心意気が、O君にはあったのかもしれない。

 ただ、それ以上に、O君は自分の感覚や価値観からして、僕の現状がいかにも危うく見え、友人として放っては置けなかったのだろう。

 今の僕にしたって、フリーターだし、僕は僕の将来を心配する所がある。まして、本人が、本人の問題なのに、全く動こうとせず、ただ時間の過ぎるに任せているのは、そして、ひきこもりのニートをしているというのは、友人として見過ごせなかったのだろう。

 ただ、当時の僕は、本当に身動きが取れない感じだった。自分の現実を、自分の現実なのに、押しも、引っ張りもできない感じだった。毎日、本を読み、下らない小説を書き、散歩し、後は、家の中で、天井を見上げて、ぼんやりとしながら、自分の無力を呪ったりしていた。

 僕は段々とO君と話したくなくなっていったし、関わりたくなくなっていった。話をする頻度を落とし、関係の自然消滅を願いもした。

 決定的だったのは、O君が広島を訪れた時のことだ。広島市内を案内したり、宮島に連れ立って行ったりしたが、帰り際になって、O君がまた僕に対して説得を始めた。僕は久々に会えたことが嬉しかったのに、途端に、目の前が真っ暗になったような気がした。

 そして、僕とO君は広島駅で別れた。それで、僕はぷっつりと何かが切れた。僕は、この時、O君と縁を切ることにした。O君が僕の気持ちや現状を分かってくれないことを嘆いたし、O君が僕を無理にでも動かそうとしたことが苦しかったし、それが、最後には苛立たしくもあった。

 その後、少しの間、O君と繋がっていた。だけど、O君に酷い内容の詩を見せつけて、O君のLINEのアカウントをブロックした。それから、大学時代の友人をことごとくブロックした。もう交友関係なるもの全てが面倒に感じられたからだ。

 さて、あなたはこの話を読んで、何を思っただろう?

 あなたは僕の無力や行動力のなさがO君との友情を引き裂いたのだと思ったかもしれない。O君が僕のことをたくさん心配してくれていたのに、O君との繋がりを切るなんて酷いと思ったかもしれない。まして、交友関係が面倒になったからと、他の交友関係を切ったのも良くないのだと。

 あるいは、こう思ったかもしれない。

 動かしようのない現実があって、時機を待たなければならない場合がある。O君はそれを理解せず、無理に著者を変えようとした。だから、交友関係に無理が生じた。O君は著者の動向をゆっくりと見守って、著者が変わろうとする時に、援助や応援をすべきだったのだと。

 僕は、今、どう思っているのだろう?

 僕は仕方なかったと思う。僕も、O君も悪くなったと。どちらにも、そうすべき必然性があったのだと。どうにもできなかったのだとすることで、自分を責めることも、O君を責めることも止めようとしているだけなのかもしれないが、それでも、仕方なかったのだと思う。

 僕は縁を切ってからのO君の動向を知らない。だけど、遠くからO君の平安を思えるくらいには落ち着いてきた。縁を切った当初はO君を呪うようなことも考えたけど、それは、僕の本当にしたいことではない。だって、本当は、O君ともっと上手く関係できたらと思っていたのだから。

 今の僕はゆっくりと家族の関係を改善し、心の不調を改善し、アルバイトだが、仕事を見つけ、自分なりの道を模索している段階だ。自分の思想に真摯に向き合い、小説や詩、そして、こうした、エッセイやレポートも書き始めている。交友関係だって、再開した。

 では、僕は再びO君とまみえたいと思っているか?答えは、今の所はNOであり、歳を食ったら、多分、YESだ。歳を食えば、変わる心もあるだろう。

 ただ、もう少し哲学的な話を持ち込むと、O君は父権的だった。O君は自分のより優位な立場に基づいて、僕を同じ系列の対等な立場に置こうと、僕の人生のより善いのを願って、僕を説得し、僕を変えようと熱心に試みていたのだ。

 母権が居場所や甘えを提供することで、他人に対する権力の行使を正当化し、かつは、他人を自分の膝元に縛り付ける権力である一方、父権は生存可能性や実現可能性について、より優位な立場から、他人を同じ系列の対等な立場に置こうと叱咤し、釣り上げる所がある。

 父権について、僕が嫌なのは、父権が、自分と同じ人間を作るように働きかける所だ。自分2号を作るために、自分の経験や価値観を動員し、他人に投影し、それを、服従すべき鋳型として提供する所がある。それは、自分を正当化する論理であり、自分に永遠の彫像を与える。

 では、母権の悪い所はないのか?

 交友関係の対等性を崩す点においては、母権も、父権も同じだ。自立や自尊心の問題もまた、父権と母権で、同じ問題がある。鋳型を示したり、与え続けたり、権力が行使され続ければ、個人の独立性が脅かされ、個人の力の観念に悪影響がある。

 母権に特有の悪い点は、どこまでも他人を肯定し、受容するので、他人が泥沼に陥る可能性のある所だ。そして、まさに、そのことによって、母権はその目的を達成する。他人はより母権に依存せざるを得なくなり、母権は関係の永続という理想を果たす。

 よくあるダメ男が好きな女の子や、ダメ男製造機と化した女の子は、それによって、自尊心や関係性の欲望を満たし、自分の効力を実感したりする。ダメ男が先なのか、ダメ男好きの女の子が先なのか、という、鶏が先か、卵が先か問題でもあり、マッチングが上手くいけば、後は知らない。

3.終わりに

 さて、今回の話はいかがだっただろうか?あなたは自分や自分の身の回りで、似たような話を聞いたことがあるかもしれないし、はたまた、演繹された哲学的な省察に思う所があったかもしれない。それについて、もしひとまとまりの考えがあれば、自分で、文章を書いてみることをお勧めする。

 僕には今回の一連のエッセイを書いている間に、種々の変化があった。まず、アルバイトを辞めたのだが、次のアルバイト先が決まらない。会社のどこもかしこも、挙動不審で、自信なさげで、すぐに飛んでしまいそうな僕を、雇おうとしない。とても困った。

 次に、兄が兄の分の家事を放棄し始めた。だから、僕に兄の分の家事が回ってきて、そのヘルプに、母が駆り出される始末。兄は反抗期と同じく、不機嫌を撒き散らし、自分は何もせず、ゲームと動画の日々を送るだけだ。兄も、僕の家族も一向に成長していないと思った。

 また、僕は交友関係を結んだのはいいが、ほとんど会っていない。僕はやはり他人と会うのに疲れを感じ、他人との関わりを避けようとしている。ボランティアやサードプレイスに顔を出してきたが、それも、僕は面倒に感じ始めている。つまり、離脱を考え始めている。

 そして、アルバイトができないので、お金の心配が出てきた。せっかく始めたギターレッスンを止めなければならないかもしれない。また、お金がないと、多くのことができなくなるし、僕の仕事に必要な本を買えなくなる。マァ、少し離れた所にある大学の図書館に駆け込めばいいのだが。

 僕は詩や小説を書かなくなっているし、エッセイはこんな様。思想だけが捗っていて、自分の人生の訳の分からなさに翻弄されている。かといって、O君の指示通りに人生を運んでいれば良かったかと問われれば、間違いなくNOと答えるだけの実感はある。

 さぁ、今回のエッセイは終わりにしたい。自分語りばかりしても、読者はつまらないだろうから。いや、エッセイ自体、自分語りではあるのだが、そこには、気づきや省察を多少入れ込んでいるので、読みごたえがなきにしもあらずなのでは、と思っている。じゃあ、さいなら。

 


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