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僕がnounoを始めた理由

こんにちは。nounoの大悟です。
今回は、僕がnounoを始めようと思った理由について書きました。

僕がnounoを始めようと思った理由は、「農村漁村地域が生き残るためにはどうすれば良いか。」「人と自然が共生した社会を実現するためにはどうすれば良いか。」という僕が持つ2つの大きなテーマに対して、行動に移したいと考えたからです。そしてnounoは、これらのテーマに対する答えを小さく示した形になると考えています。

「後」と過疎高齢化に対する思い

僕は、広島県福山市という地方都市で生まれ育ちました。僕が生まれた家は広い庭つきの小さな平家でしたが、家族が増えたため、僕が8歳の時に建て替えられました。また、幼稚園・小学校・中学校と私立で、友達もそれぞれバラバラの地域から集まっていたため、明確な「地元」というものを持たずに育ちました。町の風景も、僕が幼少期の姿と今では、随分と変わっています。

そうした中で、僕の中で幼い頃から変わらぬ風景としてあったのが、父や祖父のふるさとである「後(ウシロ)」でした。「後」は、愛媛県宇和島市津島町にある漁村で、最盛期の1950年代には300人ほどの人口があり、石を投げると魚にあたると言われるほど海は豊かでした。曽祖父は、伊勢海老とりの名人で身長180cmを超す大男だったとよく曽祖母から聞かされました。家族や従兄弟たちと潮干狩りに行ったり、魚釣りをしたらアジが入れ食いで、取りすぎて下拵えが大変だと怒られたりした思い出もあります。そんな「後」ですが、現在の人口は四人です。祖父の姉の親子と、遠縁の老夫婦しか住んでおらず、曽祖母も6年ほど前に他界しました。「後」は今でも僕にとってのアイデンティティとしての風景です。

「後」にいたひいおばあちゃんと祖父と幼い僕

僕は、「後」のこともあり、「過疎高齢化」という課題に対して人一倍強い思いを持って育ちました。

また、僕は建築が好きで、中学の頃から寺社建築に興味を持ち、父と毎週末、神社や古民家の撮影旅行に行っていました。建築だけでなく、その建築を取りまく暮らしや風習・文化に興味があった僕は、観光地化されたところではなく、昔ながらの風情や営みが残る秘境の寺社(3年間で500社ほど)や集落を探して旅していました。そうした中で、数え切れないほどの「後」以外の廃集落や限界集落、廃墟化した寺社を目の当たりにしました。

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限界集落の廃墟化した神社

中学三年の夏、父の転職に伴い、それまで通っていた小中高一貫校に進学するか、それとも父の職場の近くの農業高校に進学するかという選択をすることになりました。その頃の僕は、「後」のこととちょうど旅で見聞きしたこともあり、過疎化に対して何か行動したいという気持ちが湧き起こっていたタイミングだったこと、そして「銀の匙」という農業高校のアニメを見ていたこともあり、即答で農業高校に行くという選択をしました。

農業高校への進学

僕が進学したのは、広島県神石高原町という標高500mの場所にある油木高校という農業高校でした。高校では、それまでの生活とはうってかわり、放課後、みんなで散歩をしながら山菜を採って天ぷらにして食べたり、裏山から竹をとってきてうさぎ小屋を作ったりして遊んでいました。また、古民家再生のプロジェクトやドローンで特産品のPV撮影をしたり、養蜂や牛の世話をしたりするなど日々様々な活動を行いました。そうした中で、田舎(農村漁村地域)にいれば身の回りのもので何でも生み出すことができるのに、どうして過疎化するのかという素朴な疑問が生まれてきました。そんなときに出会ったのが、「一般社団法人まめな」と「久比」でした。

油木高校
放課後や日常を過ごした高校の牛舎

「久比」と「一般社団法人まめな」との出会い

僕が久比に移住したきっかけは、「一般社団法人まめな」代表理事の更科さんと三宅さんとの出会いでした。高校時代、過疎高齢化の課題に対して何か行動に移したいと思っていた僕は、ある人の紹介で、高校がある神石高原町にこれらていた更科さんと三宅さんに出会いました。また、三宅さんが行うことになった神石高原の酒蔵再生に、高校のプロジェクトとして関わらせてもらったことをきっかけに、三宅さんがされているナオライ株式会社の本社がある久比・三角島にも訪れるようになりました。

nounoの畑がある久比の風景

久比は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島にある人口400人ほどの小さな農村です。久比には、「農床」と呼ばれる家庭菜園のスペースがどの家にも必ずあり、「うちは早生育てるけん、あんたは晩生育てぇ」といった形で、足りない野菜を互いに補い合いながら、人々は物々交換をして暮らしています。久比には、僕らが普段浸っている金銭的価値基準だけではない、「ありがとう」で物事が回る「感謝経済」とも言える一つの地域のあり方が残っていました。過疎高齢化が深刻化していく農村漁村地域が生き残る道を探したい僕にとって、この久比での「農床」と「感謝経済」のあり方は、大きなヒントになると感じました。

久比では常に何かの発見や行動が生まれている。

一般社団法人まめなは、「暮らしを自分たちの手に取り戻す」をミッションに、新しい時代のライフスタイルや社会のあり方を探究するコモンズです。

久比には、一般社団法人まめなの活動によって全国から様々な背景を持つ方々が訪れます。福祉、農業、テクノロジー、教育、デザイン、ライターなどその分野は多種多様です。本気で今の社会の仕組みを変えようと活動されている方、今の社会のあり方に疑問を持っている方、自分が心の底からやりたいことが何かを探しに来られる方々がまめなで出会い、常にどこかで新しいアイデアや発想、発見や行動が生まれています。

また特に、その分野の第一線で活躍し、その分野に対して一番ワクワクしている人から直接話が聞けるというのがまめなの環境の特殊性だと感じています。そしてまめなには、そこで受けたインプットを、そのまま自分が考えている企画や活動に落とし込める現場があります。

まめなに出会うまで、僕にとって最も興味がある分野は建築でした。それは今も変わっていませんが、それ以上に、それまで全く興味がなかった分野の面白さを知り体感することで、自分の視野や発想が変わり、それまで自分になかった考え方や行動ができることに対するワクワク感・充実感があります。

アメリカ滞在で感じた違和感

2020年10月。ある方からの誘いでベビーシッターをしながらアメリカへ行くことになりました。場所はロサンゼルス。滞在期間中はコロナショックの真っ只中で、ロサンゼルスのダウンタウンや高速道路沿いや公園には失業したホームレスで溢れかえり、山火事が頻発したことでロサンゼルス全体が大停電したこともありました。それに加え、大統領選挙も重なり、ドナルド・トランプ率いる共和党とジョー・バイデン率いる民主党の接戦の中で、民主党の支持基盤があるロサンゼルスでは、「もしトランプが勝ったらロサンゼルスは火の海になる。」と言われるほど緊迫した状態でした。町中、バリケードだらけでまさに世紀末のようでした。

町中で支持者同士の対立や集会が行われていた

特に印象的だったのが、ロサンゼルスは砂漠の上に築かれた都市だったということです。最初の滞在場所は、ハリウッドヒルズという山の上で、現地では有名なトレッキングコースの中にある家でした。窓から見えるのは、サボテンと岩と地平線まで広がる街。雨は年に数日しか降らないとのことでした・本来、サボテンと乾燥地に強い植物しか生きられない大地に、1800万人以上が暮らしているということを実感しました。街に見える緑は全てスプリンクラーによって生かされており、貧困地区に行けば緑はほとんどありません。

乾燥した大地の先に広がる都市

ロサンゼルスでは、公共交通機関が発達している場所は、誰でもいける場所であるため、浮浪者で溢れかえり、治安が悪くなります。そのため、富裕層が住む地区は、車でしか行けない山沿いにあり、どれだけお金を持っているかによって住む場所も明確に分けられていました。そして、教育や育つ環境という観点でも、この街ではこの大きな格差を乗り越えるのはそう簡単なことではないことなんだということも感じました。日本では、何かあって着の身着のままになったとしても、勝手に草が生え、種さえ手に生えれば食べ物を育てることも決して難しいことではありません。しかし、ここではそれすらそう簡単ではなく、お金を持つことが生きていくことや生活の質に直結するのだということを感じました。石油という莫大なエネルギーに依存する現代社会がなぜ今のような形になっているのか、その一端を垣間見た気がしました。

地平線まで広がる郊外の風力発電所
都市を維持するためにここまでエネルギーが必要なのかと驚愕した。

アメリカ滞在を通して、漠然と自分にあった「過疎高齢化」「どうすれば農村漁村地域が生き残ることができるのか。」という課題感は、「農村漁村地域の存在意義は何か。」という問いに変わっていきました。そして、実際に久比で暮らすことで、どうすれば、金銭的価値基準に依存する都市中心の社会から、農村漁村地域で自立した小さな社会が連なる「自律分散型社会」に移行させることができるかという次、自分がどう行動すれば良いかという問いが生まれてきました。

農村漁村地域の存在意義は何か

なぜ農村漁村地域は過疎化するのか。僕は、近代以降の社会の産業化に伴う都市の発達だと考えました。各分野の産業化に伴い、人々がいかに統率を取りながら効率的に商品を生産することができるかを求めた結果、統率をとる中央に富や情報が集中し、そこに人が集まることで物も娯楽も集まり、それらを享受することが、世の大多数の人が目指す「質の高い生活」になりました。娯楽も物もない前時代的な農村漁村地域から若者は都市に流れ、金銭的価値基準の上では、都市と農村漁村地域とでは大きな格差が生まれました。

しかし、インターネットをはじめとするテクノロジーがこの状況を大きく変えたと僕は考えています。世の中の多くの人々は、インターネットの発達に伴い、それまで人が集まることでしか共有されなかった情報を、場所に縛られることなく世界中のどこからでも得られるようになりました。これは、それまで都市にしか集中しなかった情報を、農村漁村地域にいても取りに行けるようになったと同時に農村漁村地域から情報発信も可能になったということです。通信さえ盤石であれば、都市に人が集まる必要性が大幅に薄れることになりました。

農村漁村地域の存在意義は何か。農村漁村地域には山も水も場所によっては豊かな海もあり、ここでは農業や漁業によって食を得ることができます。本来、人が暮らしていく上で必要とする衣食住に関わるもの全てを賄うことができるポテンシャルを持っています。もし、農村漁村地域を生活基盤として自然と共生しながら、テクノロジーによって現代の利便性も担保したライフスタイルやコミュニティが築くことができれば、金銭的価値基準に依存した現代社会の歪みを大きく改善できるかもしれないと僕は考えています。

自律分散型社会の実現と「nouno」

どうすれば、自然と共生し現代の利便性も担保した形でより良い社会を描いていくことができるのか。僕は、その答えにつながる重要なキーワードの一つが「自律分散型社会」だと考えています。自律分散型社会の定義は以下の通りです。

自律したもの同士がオープンにつながりながら形成される社会

出典 NTT DATE

集落、島、村や町、県などのある一定の地理条件や文化を共有する、比較的半径の小さなエリアやコミュニティの中で、衣食住に関わる分野やエネルギーなど、生活していく上で必要不可欠なものを自給自足することが可能になったとします。そうすることで、都市などの今まで情報や人口が集中していた中央に権力が集中することなく、それぞれのエリアやコミュニティは他の政治的決定や情勢に大きく左右されずに安定的に社会を維持させていくことができるのではないかと考えています。

さらに、それぞれのエリアやコミュニティに居ながらにして、 Web3(ブロックチェーン技術による新しいインターネットの形)やAIや通信技術の更なる発達により、物理的距離や言語の壁に関係なく世界中の誰とでもやりとりができたり情報を得たりすることができるようになります。加えて、自動運転車をはじめとするモビリティの進化によって、それぞれのエリアやコミュニティを絶えず行き来する多拠点生活者も当たり前となり、自分の居場所を複数持つことも可能になると考えています。このように、それぞれのコミュニティ同士がテクノロジーによりオープンにつながり合う相互扶助の関係を築くことで、古い封建的な慣習に関わらず、農村漁村地域を私たちが生きていく上でのインフラがある場所と捉えることができれば、自然と共生したより良い強固な社会を築くことができるのではないかと考えています。

また、これらの仕組みは決して強制的な権限を有した地方有力者や一部の権力者たちによって維持管理されるものではなく、そこに住む人々の自治で維持されるべきであると考えています。自分たちが自らの暮らしに関わるインフラの維持に携わることに楽しさや意義を見出すことができ、かつ持続可能な仕組みや取り組みをつくることが重要であると考えています。

そして、楽しみながら自らのインフラの維持に携わることができる仕組みをどうつくるか考えたとき、僕はまず、生きる上で最も大切な食の基盤となっている「農」に対して何か始められないかと考えました。

そんなことを考えていた2021年4月、相方の陽太と出会い、「nouno」の構想を練り始めました。

「nouno」について

「nouno」は、持続可能な農の探究拠点です。どんな農のあり方が実現できるとより良い社会が描けるのか、正解が無い中で、農の未来を変えたいと考える人々が集まり切磋琢磨できるコミュニティを作りたいと考えました。

僕らが考える「農」の定義は以下の通りです。

食べるものを育て収穫すること。
生きる上で最も大切な「食」の根底にあるもの。

僕らは、「農」が産業化したものが「農業」であると捉え、一度、「農」に立ち返ってどんな「農」のあり方が良いのかを試行錯誤していきたいと考えています。「農」の〇〇を考えていきたい。そういう意味をこめて「nouno」にしています。

そして、「全ての人にとって農を身近にする」をモットーに活動を始めています。

しかし、農をやる意義や楽しさ、自律分散型社会を目指す重要性をいくら説いたところで、実際に農に触れて感じてもらわない限りは何も始まらないと考えています。

そのため、初動の今年一年間は、それらを可能にするような仕組みやテクノロジーに対すアイデアを実現するために動きながらnounoを一緒に動かしてくれるような仲間を集めていきたいと考えています。

具体的には、この誰もが楽しみながら農に参画できる仕組み、もっと言えば「気づけば農をする側になっているWeb3 × 農のプラットフォーム」の開発と、人と自然の共生を目指す草刈り装置を開発する「Project Nozuchi」の2本を軸に活動していきます。

また、これらのプロジェクトは持続可能な農の探究拠点としてのnounoの一つのプロジェクトとし、農の未来を変えたいと考える人々が、今後、自発的にプロジェクトをつくり動かしていく際の動線づくりも考えたいと思っています。

今回は、僕がなぜ「nouno」を始めようと考えるようになったのか、その経緯について書いてみました。また、現在行なっているnounoの具体的な活動については、次回のnoteにて公開予定です。ぜひ、引き続きよろしくお願いいたします。


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