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「一線を越える」 💀人間はなぜ一線を越えようとするのか💀

黒豹コメント

一線を越えるとはどういうことか。

「二河白道」(にがびゃくどう)という言葉があります。

悟りの世界にたどり着くには、怒りを表す火の河と、欲望を表す水の河の間にある幅4寸の白い道を、ひたすら西へと歩き続けなければならないという仏教の教え。

「一線を越える」の一線はこの白く細い道と重なるような気がします。

「臨界を超える」という言葉もありますが、怒りが爆発すると考えると、我を忘れ火の河に飛び込むという意味合いか。。

最近は、無差別殺人事件の背景に「無敵の人」という言葉があり、犯人は「死刑になりたかった」と供述することが多い。
人々が死ぬ思いで細く白い道を一歩一歩たどる中、自ら火炎の渦に身を投じようとする、まさに「無敵の人」。すでに「一線」は無縁の世界。

社会構造にメスを入れない限り、この傾向は続くでしょう。

歳を重ね、我が身を振り返ると、「もし、あそこで一歩間違っていたら。。」というシーンがいくつも記憶に残ってきます。

「一線を越える」という局面は、道ならぬ男と女の関係でも起こる。

★白い道をなめていく水の河の誘惑★

実際に、渓流の岩場で渦巻く淵に立つと、透明な深みの底に吸い込まれそうな誘惑にかられることがあります。

男と女を惹きつける魅惑と、一寸先は闇となる水の誘惑は、
どこか似ている永遠のミステリー。


さて、小説世界に戻ります。
「一線を越える」という課題は、読者にとっても書き手にとっても、
小説として避けることのできないテーマ。なぜか?

人生の転機は、一線を越えようとする、ぎりぎりの局面で起きる。
残酷な悲劇もハラハラドキドキする面白味もここに集約される。

読者は、主人公が一線を越えようとする瞬間に自己を投影する。
従って書き手は、一線を越えようとするリアリティーを忠実に再現しなければなりません。しかし。。

本当に一線を越えてしまえば、その瞬間、小説世界は消滅する。
虚構が現実となれば、ただの事件。ドラマは影をひそめる。

少なくても書き手は、越えてはいけない白い道をひたすら進むしかない。

ただ、極限のぎりぎりのエッジに立たなければ、
崖の全貌を見ることができないことも確かです。

戦争は、いつも崇高な理由をつけ一線を越える。
一線を越えてしまえば、人間は欲望に支配された、ただの肉塊と化す。
古来、殺戮と抹殺が深層に眠る人類から戦争を取り上げるのは難しい。
それでも、

「二河白道」を西へと目指す人がいる限り、
文明は続き、人間の希望の煌めきが消えることはない、と信じます。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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