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愚かであるということ

私は自分以外の人々のより多くが、愚かでなく生きることを望む。しかしあなた自らが「愚かである」ことを望み、そのように生きることは否定しない。しかし覚悟はしてほしい。決して未来を語らず、自分の望まない生も社会も、後悔とともに受け入れなければならないということを。

ここでいう「愚かである」とは、ただ沈黙し従順で服従的であり、自らの自由を捨てて生きることである。そこは哲学も思考とよべるものさえもないただの地平、照らすものなきただの地平だ。
たとえ身体的精神的に、いかなる疾病・事故による制約を抱えていたとしても、じゅうぶんにあるいはただ必要な程度でも陶冶されてさえいれば、その人は自由でいられるはずだ。なぜなら自由とは人の精神のあり方や生き方であるからであり、それは個そのものが本質的に自由な存在であることも意味する。
ゆえに、その自由を捨てただ従順にあきらめて生きるということが、私にはこの上なく辛いことと思える。

誤解のないように書いておくが、私は無制限な個の利益や利己的態度を支持しないし、いたずらに他を危険にさらしたり、尊厳を奪うような野放図も支持しない。そして私が求める自由は、同様に他のすべての人が求めることができると考えている。したがって私は、誰の自由も侵さないということを自らに課している。他に対して危害を加えないことはいうまでもない。

最後に。
ひとは自らそれを選ぶ以外にいかようにして死ぬかは、ただ「運」でしかない。
誰も「愚かである」というだけで死ぬことはないが、それは厄災を準備することと同義である。


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