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拙作「Monument」の書かれ方 #3

 なんとか「プロット」(の、ようなもの)が形になりました。

 後はただ、ひたすら書き進めていく。
 ただ、それだけ。

 ……と、たかをくくっていたのですが、そう簡単には参りません。

 仕事でも愛用してきたポメラを叩くと、確実に文字の数は増えていきます。
 増えてはいく……のですが、なんと表現したらいいのでしょう。
 シーン表に書かれていることが、なんとなく文にまとまっては、降り積もっていく。
 そんな感覚が、拭えないのです。

 積み重ねられた文章を読み返してみても、なんとも無味乾燥な、状況説明に終始する文字の羅列に過ぎない。
 まるで仕様書か説明書――仕事として取り組んできた成果物かなにかみたいに。
 どうしても、そんな風にしか思えないのです。


 自分の書いているものは、おもしろいのか?
 読み手を惹きつける「なにか」が、そこにはあるのだろうか?

 自問自答を繰り返すうち、やがて筆はぱったりと進まなくなりました。 

 書かれた部分を読み直し、手を加えてはまた、読み返す。
 そんな堂々巡りの日々。


 堪えかねて、わたしは手を伸ばします。
「マニュアル本」に。

 そう、わたしはマニュアル本世代。
 困ったときには、マニュアル本――それで多くの難局を乗り越えられた。そんな成功体験を重ねて来れたのもまた事実です。

 ……が、こと物語に関していえば、それはわたしにとって悪手だったようです。

 図書館で手に取った、小説の書き方。
 その本の冒頭の部分には、こうありました。

「初心者は、時系列に物語を記していくべきだ」
 と……。

 わたしの構想していた物語は、少年時代と現代とを幾度も往復しながら進みます。
 対してマニュアル本は、あくまでも時系列を前提に書かれていました。


 わたしは、すっかり意気消沈してしまいました。
 最期の最後、頼みの綱にしていた本にあった、この一文に打ちのめされて。

 物語を記そうだなんて、所詮、わたしには過ぎた望みだったのか。

 そう諦めて筆を置こうとするのですが、風呂を浴びるたび、ついつい、いつもの癖で蘇ってきてしまうのです。
 頭の中で固めてきた、物語のシーンの数々が。

 自分の中にある、その熱意を裏切ってしまうことはできない。

 だとして、そもそも、わたしに足りないもの――その本質とは何なのか?
 それは物語を物語たらしめる基礎的な力――文章力の決定的な不足ではなかろうか?


 今さらながらに、お気に入りの文庫本に手を伸ばし、そこに描き出される物語の世界に浸る。
 浸りながらも、そこに隠されているのであろう文章力――とでも呼ぶべきものを、なんとか我が物にすることはできないだろうか。
 ただ、漫然と読み進めていくだけでなく。

 そんな試みの中で、ある日、わたしはふと思いつきました。

 仕事としての文章作成――仕様書や説明書――に取り組むときに、いったい最初はどのようにしていたのか、を。

 それは、先人の遺してくれた文章を読み返し、その構成に頼り、変更する部分だけを挿げ替えて、まねをする行為に他なりません。

 ならば、いっそのこと、今読んでいる小説を一冊丸ごと、単純に模写する練習を続けてみたらどうなるだろう。


 手をこまねいていても、時を失うばかりです。

 いちかばちか。

 そんな、投げやりな気分にも、半分援けられたのかもしれません。

「急がば回れ」。

 わたしは、本棚から二冊の文庫本を選びました。

 一冊は、お気に入りの作家さんの最初期作で、男性の一人称で進むミステリー。
 もう一冊は、女性の一人称で語られる長編のSF。

 それらを1ページ目から、模写していきます。
 ただ、ひたすら忠実に。

 延々と続く、読み取りと、打ち込み。
 単純な作業の繰り返しです。

 ですが結局、これがわたしにとって文章力を養う、いわば「筋トレ」になってくれたことが、後になってわかりました。

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