映画にまつわる思い出ノォト(ひまわり)
画面いっぱいに広がるひまわり畑は、1969年、もしくは1970年に、
ウクライナで撮影された影響でしょうか。
最近、YouTubeのおススメで、
ヴィットリオデシーカ監督の映画、
「ひまわり」が出てきます。
随分「ひまわり」のことは忘れていたのに、
過去の記憶がすーっと浮かび上がって、
懐かしく、しばらくぼうっとしてしまいました。
映画についての考察ではなく、
「ひまわり」にまつわるごく個人的なエピソードです。
まずは、
「ひまわり」をご存知でない方、
ご興味ある方はぜひご覧ください。
エピソード❶
わたしが多分、4歳の頃だったと思います。
夜は母と二人、居間に布団をしいて、
電気を消してテレビを見ながら寝落ちする、
というのが我が家の通例でした。
その日は水曜ロードショーか、
金曜ロードショーかわかないけれど、
布団に入って母と同じように洋画を観ていました。
4歳です。
当然、くわしい事情などわかるはずもありません。
けれど、
ブラウン管から、ぼうっと光を放ちながら、
画面いっぱいに広がるひまわり畑の映像が、記憶にずっと残っていました。
ときは過ぎ、
映画好きの少女に育った18歳の頃、
町の名画座で目にとまった看板。
「ひまわり」
記憶に残っているひまわり畑が一面に広がる映画は、
この映画ではないか?
ふと、
そんな気がして、一人で名画座に入りました。
ああ、やっぱり。
物語も佳境、
ジョバンナが捜索の手伝いをしてくれる人?と立ち寄ったひまわり畑。
あまりにも広大で、
世界がひまわりで埋め尽くされたように見事で、
でも、まったく揚々としていない圧巻の光景は、
まちがいなく4歳のとき観た映画の断片でした。
映画の感動と、
思いがけず再会できた感動で、
たぶん、わたしはエンジ色のベルベットの椅子から立つことができず、
大いに泣いたことでしょう。
それから、
「ひまわり」は大切な映画となりました。
エピソード❷
それから十年後。
当時仲良かった先輩は仕事ができて、
本を読むのが好きで、
映画好きでお酒好きで、クォーターで美しくて、
そんな華やかな人だった。
「ひまわり」のエピソード❶を語ると、
彼女はかなり感心してくれて、
「カイトの感受性の強さは、小さいときからの英才教育の賜物だね!」
と良いように言ってくれ、
(母はそのつもりない)
自分の娘も3歳から映画館に連れて行くという英才教育?の実践を模倣してくれました。
さらには、映画「ひまわり」が好きだというお父様(研究者で博士)にわたしのエピソードを話され、
ハーフの博士がいたく感動し、
なんと博士としばらくメール交換(文通)をしたという経緯があります。
博士はわたしが知り得ない、
撮影当時の社会情勢であったり、
音楽の話であったり、
製作サイドの話を延々と語ってくれました(長文だったな)、、、。
先輩は、
「カイト、ごめんね。あまりしゃべらない人が珍しい」
と言われていました。
今のわたしだったら、このような展開、閉口しそうですが、
当時はうれしかった記憶があります。
博士もずいぶん前に亡くなりました。
博士は、4歳のときの記憶の断片から、18歳の名画座での再会を、
「奇跡のような、フィクションのような出来事ですね」
と言ってくださいました。
その言葉は、素直にうれしかった。
そして、
いつか見た深夜のドキュメンタリーで、
「ひまわり」のシチュエーションとまったく同じ現実があったことを知りました。
しかも、戦争で引き裂かれ、帰れる目途が立たず、
現地の女性と結婚してしまった男性は日本人です。
現実に、
実際に、
あり得る出来事なのだと、当時の若いわたしは深夜、
目がはれるまで泣きました。
水野治夫さんじゃないですが、
「映画ってほんとにいいですね」
でも、十年以上前か、パニック障害になってからは、
映画館のような閉鎖的で、音響が強いのはだめになってしまった。
ほぼ満員電車も乗れるし、完治してるし、さらにはDVDや、映画を簡単に観れるコンテンツはあると思うけど、
なんとなく疎遠に。
観たいと思わない。
あれだけ映画好き(月2~3回は映画館)だったわたしは、
いまのところ微塵もなくなりました。
どこいったー!?
また戻ってくるのかな?
絵がもどってきたみたいに。
ウクライナのひまわり畑は、
いまはどうなっているのだろうと思いながら、、、
トップの画像は数年前の、北海道「上野ファーム」で
わたしが撮ったものです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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