アナログ派の愉しみ/本◎デュマ著『モンテ・クリスト伯』

なぜわれわれは
復讐劇に血が騒ぐのか


国立劇場の建て替えにともなう『さよなら公演 歌舞伎&落語コラボ忠臣蔵』を鑑賞したときのこと(2022年11月)。まず春風亭小朝が落語『殿中でござる』『中村仲蔵』の二題を口演したあと、中村芝翫主演で歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の五段目・六段目(おかる勘平の悲劇)が上演されるという趣向で、わたしも満場の観客といっしょに笑ったり泣いたりしながら、ふと疑問を覚えた。元禄時代の浅野内匠頭の刃傷沙汰から四十七士の吉良邸討ち入りまで2年足らずの復讐劇が、とうに300年以上の歳月を経て、なぜわれわれの血をこれほど騒がせるのか、と。

 
同じことは、フランス革命期に起きた実話をもとにして文豪アレクサンドル・デュマが仕立てあげ、いまなお世界じゅうで愛読されている『モンテ・クリスト伯』(1846年)についても当てはまるだろう。ドラマのスケールとしては、こちらのほうがずっと壮大かもしれない。なにしろ、主人公が無実の罪で奈落の底に突き落とされ、そこから這い上がって宿敵たちへの復讐に手を染めるまでに23年間もかかっているのだから。わたしの手元にある新庄嘉章訳の講談社文庫版では、実に全5巻で約2300ページの叙述が費やされている。

 
商船の若い船乗りエドモン・ダンテスは航海中に死んだ船長の遺言で、フランス皇帝の座から失脚したナポレオン・ボナパルトが幽閉中のエルバ島に立ち寄り、ひそかに地下組織宛ての文書を預かる。マルセイユに帰港後、ダンテスがつぎの船長に任命されると、それを妬んだ同僚のダングラールが秘密文書のことを洩らし、故郷の恋敵フェルナンが密告書をデッチ上げ、検事代理ヴィルフォールはみずからに災いのおよぶのを恐れて青年が無実と知りながら監獄島の禁錮刑に処した。そんなダンテスは獄中で出会った神父の導きで絶望から立ち直り、また、モンテ・クリスト島に金銀財宝が隠してあることも教えられて、14年の囚人生活ののち脱獄に成功すると、その莫大な富をわがものとする。そして、さらに9年の歳月が流れ去り、新興の貴族モンテ・クリスト伯に変身したダンテスは、いまやパリの政財界で権勢をふるうようになっていた3人の宿敵への復讐の事業にいよいよ着手する……。

 
ところが、である。いかにも異様なのは、この波瀾万丈の物語を織りなす文庫の第4巻までが、まるまるダンテスにとって将来の復讐のための用意周到な、というより、むしろ必要以上に遠まわりの準備のプロセスでしかないことだ。いくらなんでもバランスに欠けること夥しい。かくて、宿敵の一番目のフェルナンを自殺に追い込むのは最終の第5巻に入り、全2300ページのようやく2000ページあたりのことで、しかもフェルナンの妻となったかつての婚約者への思いやりからいったんは復讐を断念しようとさえする始末。さらには、二番目のヴィルフォールがかれの張りめぐらした罠のせいで、2200ページのあたりで社会的名声を失って発狂すると、ダンテスは「もうこれで十分だ」と洩らし、三番目のダングラールに至っては、本人の強欲がもとで山賊に捕らわれて絶体絶命の窮地に陥ったのを、最後の最後でわざわざ救いだしてこんな言葉をかけるのだ。

 
「お立ちなさい。あなたの命は助かったのです。あなたの二人の共犯者は、あなたのような幸運にはめぐりあえませんでした。一人は気狂いになり、一人は死にました! ここに残った五万フランは持っていって結構です。わたしからの贈物にしましょう。〔中略〕さあ、たべて、飲んでください。今晩は、お客としてご馳走しましょう……ヴァンパ、この人が腹いっぱいたべたら、自由な身にしておあげ」

 
この成り行きは一体、何を意味しているのだろう? ダンテスの振る舞いは人道主義的な見地からすればまことに立派だとしても、これだけのページ数をえんえん読み進んできた読者に対しては背任行為に近いのではないか。

 
いや、こういうことだろう。われわれが復讐劇に惹かれ血を騒がせずにいられないのは、だれでもひとりやふたり、この世から消してしまいたい復讐の相手が思い当たるからに違いあるまい。そして、赤穂浪士たちのうち勘平のように決起以前に落ちこぼれた粗忽者に涙したり、23年分の恨みを溜めてダンテスがイザというときためらう姿に感きわまったりするのも、ひっきょう、われわれ自身が決して復讐を実行することはできず、せいぜい頭のなかであれこれと相手を打ち負かす想像だけでやり過ごしているからだ。それとは反対に、おのれの復讐の相手に平然と刃を向けられるのは、もともと『忠臣蔵』や『モンテ・クリスト伯』と縁もゆかりもない手合いなのだろう。
 

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