アナログ派の愉しみ/本◎伴名 練 著『なめらかな世界と、その敵』

少女は宇宙空間から
地上へ駆け下りてきて


たった一度きりの人生なのだから、といった言い回しを、確かにわたしも若い世代に向かって発したことがある。だから悔いのないように生きるべきだ、自分が本当にやりたいことをやったらいい、決して命を粗末にしてはならない……と、そのあとに説教がましい文言が続くのがつねだった。しかし、性別非公表のSF作家、伴名練の小説『なめらかな世界と、その敵』(2015年)は、そんなわれわれの世代にとって金科玉条のテーゼをあっさり蹴飛ばしたところから出発する。

 
主人公の女子高生・架橋葉月が生きているのは、過去や未来のどの時代にも、あるいは地球上ばかりか宇宙空間にも同時に移動することができる世界だ。つまり、たった一度きりの人生なのではなく、いくつもの「パラレルワールド」を往き来しているわけで、したがって真夏の朝に目覚めても、窓の外に雪景色を眺めたり、すでに交通事故で死んだ父親と食卓で顔を合わせたり、慌ただしく家を出たあとの通学路でもそのときの気分次第でこんな具合に。

 
 三十度近い熱気に炙(あぶ)られた坂を勢いよく下って、いい感じに汗をかいたら、異常気象で狂い咲きした桜のしだれかかる並木道を駆け、途中からは路面の早過ぎる紅葉をサクサクと踏みしだいて、季節外れの雪化粧を纏(まと)った橋を、凍った川面に目を眇(すが)めたりしつつ走り抜ける頃には、丘の上に高校が見えてくる。

 
教室ではクラスメートたちがそれぞれに時間・空間の制約なしのおしゃべりに興じている。しかし、いつもと様子が違ったのは担任教師から転入生がきたと告げられ、しかも、それがかつて仲のよかった幼馴染みの厳島マコトだったことだ。中学の陸上部でもいっしょだったときに引っ越してしまって以来、3年ぶりの再会を葉月が大喜びすると、相手はまるで別人のような態度で、必要がないかぎり自分に近づかないでくれ、もう私の人生には脇道も寄り道もないのだから、と顔を背けるのだった。

 
やがて、そのマコトは事故で特殊な薬品を浴びたことが原因で「乗覚障害」となり、時間・空間を移動する能力を失っていたことが判明する。これからはみんなと別の人生をひとりで歩いていくしかない、と思い定めたマコトに対して、葉月はふいに校庭のトラックを周回する競走を持ちかける。ただし、現役選手を続けてきた自分には、ハンデとして半身はこちらの世界、もう半身は別の世界を走ることを条件に。レースがはじまると、そちらの半身の足は雪原を駆けたり熱帯を駆けたり、巨大な恐竜の足になったりロボットの金属の足になったり、ついには勢いあまって宇宙空間にまで飛びだしたり……。

 
 突然、前のめりに転びそうになる。足下じゃなく、前方から重力が呼んでいた。左右の眼下に星の海。あたしの半身は、宇宙空間から地上へ向けて渡されたロープの上にあった。足裏から滲(にじ)み出る樹脂の吸着によってあたしは体勢を立て直し、地上へ向けて再び駆け下り始める。交互に切り替わる重力方向の変化は船酔いめいた酩酊感を引き起こす。酸素を必要としない身体と、酸素を求める肉体の転換もまた、何かの発作のようにあたしの神経を揺さぶった。

 
こうしてありとあらゆる時間と空間を駆け抜けて、ふたりがほとんど同時にゴールインしたとたん、葉月はひそかに手に入れていた薬品を使って自分も「乗覚障害」へと追いやってしまう。マコトが驚愕して、後悔するぞ、と叫ぶと、わかっている、後悔することも込みでこっちを選んだんだ、と笑って応じた。この結末は、すべてを友情によって解決しようとする青春ドラマの常道に過ぎないのだろうか。どうもそう単純明快な話ではなさそうだ、とわたしには思われる。

 
この作品のタイトルが、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』(1945年)を下敷きにしていることは明白だろう。ウィーン生まれのユダヤ系の哲学者のかれは、ナチス・ドイツがオーストリア併合へと魔手をのばしはじめた1937年にニュージーランドに移住して、この浩瀚な著作に取り組んだ。主題とするところは、人類にとって本来望ましいはずの「開かれた社会」を窒息させずにはおかない全体主義の哲学的な淵源の検証だった。それに倣うなら、伴名練はひとがのびのびと呼吸して生きられる場所を「なめらかな世界」と呼んで、それに「パラレルワールド」を対置してみせたのではなかったか。

 
今日、若い世代を取り巻いている時間・空間はとうにリアルとヴァーチャルの境界が溶け失せて、無制限の可能性が開かれているように見えながら、その実、底知れぬ虚無への崖っぷちに立たされているのに違いない。そこから一歩を踏みだすための道筋は、たとえ平凡な日常であったとしても「いま・ここ」にしかないことを、女子高生の葉月とマコトは確かめたのだろう。そう、何もわれわれの世代がことさら、たった一度きりの人生なのだから、などと力説するまでもなく――。
 

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