アナログ派の愉しみ/本◎ジョージ・オーウェル著『あなたと原爆』

世界は奴隷制の復活へと
向かっている?


わたしがいぶかしく思うのは、ウクライナ危機めぐって、国連のアントニオ・グテレス事務局長が「かつては考えられなかった核戦争が、いまでは起こりうる」と警鐘を鳴らしたのをはじめ、世界各国の政治家が核戦争の可能性を口にしていることについて、日本のテレビがいやに沈着冷静な態度を示していることだ。むろん、やみくもに大騒ぎされるよりはずっとマシだが、それにしてもロシアの戦術核兵器がすでに隣国ベラルーシへ配備されたというニュースのすぐあとに、ポスト・コロナの観光地の賑わいやら大リーグでの日本選手の活躍やらの話題が続くのには首をかしげてしまう。

 
さらに奇怪なのは、そうしたテレビの報道ぶりを前にして、どうやら世間の視聴者もあまり違和感を抱いていない様子だし、かく言うわたしもいつの間にか薄ら笑いを浮かべて受け入れはじめていることだ。明日にも核戦争が起きるかもしれないと警鐘を鳴らされているのだから、もっと激しい恐怖に駆られていいはずなのに、しかも唯一の戦争被爆国にありながら、この感覚の麻痺は一体どうしたわけだろう?

 
第二次世界大戦の最終盤、イギリスの週刊新聞『トリビューン』の文芸担当編集長をつとめていたジョージ・オーウェルは、極東の島国に相次いでふたつの原爆が落とされた2か月後、1945年10月19日付の同紙に『あなたと原爆』という記事を発表した。人類が迎えた新たな危機の時代と真正面から向きあった、おそらく最も早い段階の文章だろう。事実、その冒頭でかれは「このさき五年のうちに我々が一人残らずみな原爆で木っ端微塵に吹き飛ばされてしまう可能性が極めて高いことを考えるなら、これまでに原爆が引き起こしてきた議論の広がりは、当初の予測よりはるかに小さい」(秋元孝文訳)と苦言を呈しているのだ。なるほど、途方もない状況とマスコミ報道のあいだのアンバランスは当初からのものだったらしい。

 
オーウェルは、文明の歴史とは武器の歴史であり、火薬の発見がブルジョワジーによる封建制度の打倒を引き起こしたと説いたうえで、武器には高価で製造が困難なものと、安価で単純なものとに大別できるという。そして、前者のたとえば戦車や戦艦が専制に資する兵器であるのに対して、後者のマスケット銃や手榴弾は弱者に戦う術を与える民主的な兵器であり、これらによってアメリカ合衆国の独立やフランス革命の成功が達成されたと論じる。この戦術の非対称の論理は、目下、武力において圧倒的に優勢なロシアと劣勢のウクライナが、すでに1年以上にわたって拮抗した戦いを繰り広げている事情も解き明かすものだろう。

 
だが、前者の武器の究極である原爆を二、三の怪物のような超大国だけが保有して、その甚大な脅威を他の報復手段のない国々に向けるなら、世界はどうなるか、と自問してこう自答する。

 
「人類は自分で作った武器で自らを破滅させようとしており、そうなればアリやなにかほかの群生生物が人間に取って代わるだろうという警告を、過去四十年、五十年の間、H・G・ウェルズ氏をはじめとした人々が発し続けてきた。破壊されたドイツの都市を目にしたことがある人なら誰でも、少なくともこの考えが現実となる可能性は高いと思うだろう。それでもやはり、世界を全体として眺めれば、ここ何十年の趨勢は、無政府状態ではなく奴隷制の復活へと向かっている。我々が向かう先にあるのは、全般的な崩壊ではなく、奴隷制のあった古代帝国と同じように恐ろしくも安定した時代なのかもしれない」

 
いやはや、なんと情け容赦のない予言なのだろう。世界が少数者の破天荒な力によって支配されるなか、人類の多数は破滅の危機に瀕しながらも奴隷の状態に立ち返り、甘んじて安逸をむさぼっていくというのだ。あとに続く個所で、こうした超大国同士の戦闘をともなわない対立関係を初めて「冷戦」と呼んで、以降広く人口に膾炙することになる。かくて、もはや恐怖心さえも他人任せにしてしまった奴隷たち……。それは、まさしく現在、核戦争の可能性が史上最も高まった状況下において、日々の行楽やスポーツにうつつを抜かしているわれわれの姿そのものではないだろうか?

 
オーウェルの鋭利な筆鋒はとどまらず、この記事を書いたのと同じ年に『動物農場』、3年後には『一九八四年』とふたつのディストピア小説を完成したのち、結核のため1950年に46歳で他界する。
 

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