アナログ派の愉しみ/本◎『土佐日記』

なぜそこまで
仮名の日記にこだわったのか


 十三日の暁に、いささかに雨降る。しばしありてやみぬ。女これかれ、沐浴(ゆあみ)などせむとて、あたりのよろしきところにおりてゆく。海を見やれば、
 雲もみな波とぞ見ゆる海人(あま)もがな
 いづれか海ととひて知るべく
となむ歌よめる。さて、十日あまりなれば、月おもしろし。船に乗りはじめし日より、船には、紅濃くよき衣着ず。それは「海の神に怖じて」といひて、なにのあしかげにことづけて、老海鼠(ほや)のつまの貽鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に挙げて見せける。

 
『土佐日記』(934年)のこのくだりを前にして、わたしはのけぞってしまった。新潮日本古典集成版における木村正中の注釈によれば、文中の「老海鼠」とは男の象徴を指し、それにつれそう「貽鮨」「鮨鮑」はいずれも女の象徴を表わすというではないか。つまり、平安時代の船の旅にあっては海神を憚って女たちは派手な衣服をまとわぬばかりか、陰部をさらけ出して邪気悪霊を祓っていたらしいのだ。なんと大らかな古代人のエロティシズム!

 
醍醐天皇の命になる『古今和歌集』(905年)の編纂で、紀貫之が中心的な役割を担ったのはまだ30代の壮年期で、これは日本語表現の表舞台についに仮名が登場したことを告げるエポックメイキングな事業だった。そんなかれが後年、還暦前後に至って土佐の国司として任地で5年間を過ごしたあと、京へ帰還する55日間の旅の出来事について和歌を織り込みながらまとめたのが『土佐日記』だ。

 
 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。

 
よく知られている冒頭の文章は、一般に男が漢字で書くのがならいの日記だが、女になったつもりで仮名でしたためてみたという意味だろう。控えめな書きぶりながら、そこには仮名による表現の先導者として道を開いてきて、いまや大御所となった自負も込められていたに違いない。それにしても、なぜそこまで仮名の日記にこだわったのだろうか?

 
現在の高知県から鳴門海峡を渡って大阪府に向かうだけの航海も、当時は天気や風・波の状態に左右されるきわめて不安定なもので、なかなか旅程が捗らなかった。そうしたある日には、こんなエピソードも記録されている。

 
 四日。楫(かぢ)取り「今日、風雲の気色はなはだ悪し」といひて、船出ださずなりぬ。〔中略〕この泊りの浜には、くさぐさのうるわしき貝、石などおほかり。かかれば、ただむかしの人をのみ恋ひつつ、船なる人のよめる、
 寄する波うちも寄せなむわが恋ふる
 人忘れ貝おりて拾はむ
といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、
 忘れ貝拾ひしもせじ白玉を
 恋ふるをだにもかたみと思はむ
となむいへる。女子(をむなご)のたまには親幼くなりぬべし。「玉ならずもありけむを」と人いはむや。されども、「死(しん)じ子、顔よかりき」といふやうもあり。

 
実は、紀貫之は土佐守として赴任中に、慣れぬ風土が災いしたのか、幼い娘を病気で亡くした。日記では、家族揃って京への帰路に着けなかった悲嘆が繰り返し綴られている。引用個所の「船なる人」も「ある人」もかれ本人のことで、浜辺の忘れ貝を拾って早くわが子を忘れたい、いや、そうではない、いつまでも忘れずこの恋しさをよすがにしたい、と千々に乱れる心境をうたって、親の尽きることのない悲しみを露わにしたこのシーンは、最も読む者の胸を締めつけるところだろう。

 
そうなのだ。船上で女たちが陰部を露わにして荒ぶる海神をなだめたのも、浜辺で手にした貝殻に愛児への思慕をよみがえらせて改めて死を悼んだのも、日記に刻み込んだのは作者にとって同じ原理にもとづくものだった。それはもはや祭祀と言ってもいいのかもしれない。あえて仮名を用いることにより、言霊を呼び寄せ、おのれの喜怒哀楽が天地自然とひとつになることが目論まれたのである。

 
こうした仮名に対する古代人の態度を、われわれもときに思い起こしたらどうだろうか。


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