アナログ派の愉しみ/本◎スヴァンテ・ペーボ著『ネアンデルタール人は私たちと交配した』

確信犯的な
自由人の気性ゆえに


「ベイエリアでの生活は、ラボの中でも外でも、充実し、満足できるものだった。わたしは女性だけでなく男性にも魅力を感じる性質(たち)で、スウェーデンではゲイ・ライツ・ムーヴメント(男性同性愛者人権運動)に関わっていた。わたしがいた当時、ベイエリアではエイズ禍が等比級数的に広がっており、すでに何千という若者の命が奪われていた。何か役に立つことをしなければ、と、わたしはイースト・ベイ地区のエイズプロジェクトにボランティアとして参加した」(野中香方子訳)

 
この文章が、昨年(2022年)ノーベル医学・生理学賞を受賞したスウェーデン人の生物学者、スヴァンテ・ペーボの自叙伝『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(2014年)の一節だと知ったら、たいていのひとは面食らうのではないか。少なくとも、日本ではノーベル賞に輝くような学者がみずからのセクシュアリティをあからさまに話題にすることは考えにくいだろう。ここで言及されているのは、ペーボが30代のころにアメリカのカリフォルニア大学バークレー校で博士研究員をつとめたときの体験だが、もちろん、ただの伊達や酔狂の告白ではなく、こうした性別や国籍などに一切縛られないスタンスが自己の研究活動にとって必須の条件だったからに違いない。

 
もとより、ゲノム解析という最先端の分野に身を置き、世界じゅうの研究者がたがいに一刻も早い成果をめざしてしのぎを削っているレースのまっただなかで、ペーボの確信犯的な自由人の気性は、幅広いパートナーシップを築き、ときにライヴァルすらも協力関係に取り込んでしまう効果をもたらした。さらには、おそらく並みの神経の持ち主なら尻込みしかねないほど困難な、それだけに広大な可能性を秘めた進路を切り開く結果にもつながっていった。

 
ペーボが40代になったとき、マックス・プランク協会から連絡が入る。先方は基礎研究を支援するドイツの団体で、新たに人類学分野の研究所を設立するにあたり責任者になってほしいとの要請で、契約の条件からも豊かな資金からも最高の新天地といえたが、ただひとつ重大な問題があった。かつてヒットラーのナチス政権下において、アーリア人至上主義の人種差別的優生思想のもとでユダヤ人などの絶滅政策が行われたという悲惨な歴史から、ドイツでは人類学のテーマ自体がタブー視されてきたなか、では、新しい研究所の運営はどうあるべきなのか、と――。ここでペーボの本領が発揮される。

 
「そうするうちに浮かんできたのは、そこでの研究は、既存の学問の系統に沿うものではなく、『何が人類を特別な存在にしているのか?』という疑問に焦点を当てるというアイデアだった。そして古生物学者、言語学者、霊長類学者、心理学者、遺伝学者らが協力してこの問題に取り組む、学際的な研究所にしよう。その足場となるのは『進化』であり、究極の目標は、人類の進化の道筋がなぜ他の霊長類とこれほどまでに異なったかを明らかにすることだ。つまりそこは、『進化人類学』の研究所になるべきなのだ」

 
まさしく天衣無縫。かくして、1997年ライプツィヒにマックス・プランク進化人類学研究所が創設されると、遺伝学部門のディレクターに就任して、ネアンデルタール人のDNA分子の塩基配列(GACTの並び)の解析に取り組み、われわれ現生人類とネアンデルタール人が交配していた証拠を示して世界じゅうをあっと言わせるのだ。その後、シベリア南部の洞窟で見つかったデニソワ人とのあいだにも同様の関係があったことも明らかになり、ペーボはみずからが達成した「絶滅したヒト科動物のゲノムと人類の進化に関する発見」(ノーベル賞の受賞理由)の意義について、つぎのように強調してみせる。

 
「これは驚くべき発見だった。結局のところ、わたしたちは絶滅人類、2種のゲノムを調べ、そのどちらからも、現生人類への遺伝子流動が認められたのだ。したがって現生人類が世界各地に広がって行く過程で古い型の人類と交配するのは、例外的なことではなく、ごく普通のことだったと考えられる。そしてこれはネアンデルタール人もデニソワ人も完全には絶滅していないということを意味する。彼らの一部分が、現代人の中に生きているのだ」

 
ペーボの自由人ぶりは人類という枠組みさえ軽々と乗り越えていく。それこそが真に賞賛に値することではないだろうか?
 

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