アナログ派の愉しみ/映画◎野村芳太郎 監督『張込み』

刑事たちが身体を張って
向きあったものは


東京・深川の質店で強盗殺人事件が起きた。間もなく警視庁捜査一課が逮捕した容疑者の男は、さらに拳銃を持ったまま逃走中の共犯者がいることを自供する。その男とは建築工事の飯場で知りあい、胸を患っているようで、3年間の上京時に別れた恋人のことをしきりに思い出し、彼女の現況についても洩らしたという。そこで、捜査班の柚木(大木実)と下岡(宮口精二)の両刑事は、もうひとりの犯人の石井(田村高広)を待ち伏せようと、時はまだ蒸気機関車だった急行列車に乗り込み、20時間以上をかけて九州の佐賀へ向かう。そこでは元恋人のさだ子(高峰秀子)が年の離れた銀行員の後妻となって3人の子どもと暮らしており、刑事たちはその家を見下ろす旅館の2階の部屋に陣取ると、真夏の炎天に炙られながら監視をはじめた……。

 
野村芳太郎監督の『張込み』(1958年)の導入部だ。大がかりなロケ撮影によって当時の日本社会をありのままに写し取ったモノクロ映像は、いま観てもずっしりとした手応えを感じさせてやまない。原作となった松本清張の短篇小説では、べテランの下岡は犯人の別の関係先に向かい、若い柚木だけがここに張り込んで淡々としたモノローグで綴られるのだが、橋本忍のシナリオでは両者の丁々発止のダイアローグで進んでいくために、捜査側の心境を追うことができて説得力につながっている。

 
それにしても、犯人の追跡にあたって、こうした泥臭い手法は過去のものとなりつつあるのではないか。今日では、いつ現れるかどうかわからない相手をじっと待ちかまえるより、もっと積極的に、犯人が関係者とのあいだに携帯電話で行った通話やメールの履歴調査、犯行現場からの足取りを辿って無数に設置されている防犯カメラの撮影画像の解析、また、もし犯人が車を利用した場合には自動車ナンバー自動読み取りシステムの照合――といったアプローチのほうが優先されるだろう。もとより、アナログ社会には影も形もなかったこうした手法が、現在のデジタル社会ではごく当たり前に活用できる以上、ずっと合理的・効率的なのは言うまでもない。ただし、その結果、捜査活動からこぼれ落ちてしまう要素もあるのではないか。

 
至って地味なさだ子は毎日を規則正しく過ごし、その周辺になんの変化も見られないまま、1日、2日、3日……と無為に時間が流れていくうちに、汗だくになった柚木と下岡はこんな会話を交わすのだ。

 
「どんな環境や状態にあったとしてもですね、あの女に猛烈な恋愛の経験があるとはちょっと考えられなくなってきましたよ。まあ、それに似たようなことがあったとしてもですよ、犯罪をおかして死にもの狂いになっている男が一直線に引きつけられて飛んで来るような、そんな女じゃないんじゃないですかね」
「来るか来んか、わからんよ。だから、こうして張っているんじゃないか」

 
そう、ごく単純な肉体労働の張り込み捜査において、刑事たちがおのずから監視対象者や犯人も血肉をともなった存在として受け止めるのは当然で、その結果としての共感のあり方が事態打開のきっかけにもなれば、逆に手枷足枷にもなるだろう。実際、この映画でも、逃亡犯・石井と元恋人・さだ子の実像がやがて柚木と下岡を思いもかけなかった結末に導くのだが、ともあれ、そこにあるのは徹頭徹尾、人間同士のドラマだ。それに対して、デジタル社会ならではの追跡方法においては、携帯電話の通話・メールの履歴調査やら、防犯カメラがとらえた撮影画像の解析やら、利用車両のナンバーの照合やら、犯人の姿はことごとく個別のデータに解体されていき、そこに血肉をともなった全的な存在が入り込む余地などない。

 
いや、それは犯罪捜査にかぎった話ではないだろう。いまや世間のだれもかれもが血肉をともなった生々しい存在であるより先に、さまざまなデータの集積物として向きあっているように見える。アナログ社会の住人だった石井とさだ子と違い、デジタル社会では恋人同士だっておたがいを直視するより、手元のスマホに視線を落としているほうが安心できるふうではないか。こうした人間関係のあり方をかつては想像力の欠如と称したのだけれど、いまは果たして……?
 

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