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自分のための課題ではない。オーゴッド私は結構です

今や中東で悠々自適なネイマールがまだ自国のサントスにいてクラブ・ワールドカップで柏レイソルと戦ってたから2011年12月の
はなし。

当時のとあるマンションの屋上のシャワーをお風呂のない住居に住んでいる人たちと共有していた。共同アトリエのシェアメンバーで、同マンションに住んでいたOくんがガス代出してくれてたので、優しい彼はタダでいいよって言ってくれたけど生活のインフラだしヤンチャするかわいい子もいるから、使う人たちでフェアーになるようにカンパしようと僕ははりきっていた感じだった。←しゃーないやつ(笑)

まだ当時のまま張り切ってラミネートして貼った恥ずかしい文章が残ってました。ホントにかわいいやつ(笑)

ある日、いつも通りシャワーを使わせてもらいに行ったら銭湯にあるような富士山が描かれていて、何かしら日々積み重ねた信頼や平安が奪われたような嫌な違和感を覚えた。目に見えない、掴みにくいものだから、若い僕には未熟で力不足で、感じている何かを言語化出来ず、うまく周りにも表現することが出来ませんでした。

しかしあのときはじめて、ああーこれがこの地域に昔から住んでいる隣人が新参の僕らに感じている視点なのかと、別の視点を獲得する機会とその視点が沸き起こしてしまう感情を持つこととなったのでした。

シャンプーもあのときのまま。廃墟か!?こういう負の遺産って良いよね~「負の遺産ツアー」とかどうかな?
トリックスターな人たちの絵

事情を聞くと、カンパして利用していた人ではない人同士で話し合って許可して誘致した画家が描いたものらしく、進め方は管理者や利用者に配慮がないのではないかと、面倒だし嫌だけど、それなりに勇気を持って抗議した。しかし、誘致した当人は、利用者でない管理者でもない人に話をして許可を得ていると、さすがのトリックスターな説明で、当時の道半ばの僕は、力不足、孤独を感じつつ、泣き寝入りするしかなかった。

僕は、この一件だけではないが、少なくともそれが発端となり、別の場に拠点を移した。

引越し先の管理人さんにEUROウクライナ・ポーランドをひとり観戦して騒ぎすぎて怒られた記憶があるから、あれは2012年だ。

まあ、そんなことは時が過ぎれば忘れてるし、その人たちが嫌いなワケではない。むしろ感謝してる。人は変われないし、今後も変わらなくていい。むかしもいまも物事は最善に展開している確信があるし、問題はないのにひとりで思考の中に否定的な思考を発散させると不幸を感じてしまう。思考は否定して発散させるのではなく肯定して収束させていくよう扱わければならない。

ただ、それらの過程を通過し、理解し、得たのは、出来事を身体的な限定された視点を離れ洞察し言葉で指し示し表現する術。瞑想ってやつ

そのとき僕を、巻き込み苦しめたのは、あるがままの世界を限定された視点に小さくしてしまう「奪う表現」。私の此花、ぼくたちのこの地域、といった「奪う表現」の相対的な反対の極にはその限定された視点を超える地平に「捧げる表現」がある。古来の伝統の叡智や儀式のほとんどがそうである持ち寄りや分かち合うような表現がそれにあたる。

いまも同じような困難に直面している皆さんも巻き込まれず苦しまないで済むものなら、それを理解できるならそうすればいい。いや、でも自分は苦しみたいんですというなら、そりゃ苦しむべきだから苦しんだらいい(笑)長い道プロセスを通して自分で学べばいい。
それはそれでこの巨大なテーマパークを生きる意味って感じ。奪う表現でもなんでも好き勝手やってください。
日々いろんなものがカタチを変えてやって来るけど、今回もありがとう、でももう充分いただきました、自分は結構です。という感じなのでした。

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