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わかりあえないことをどう捉えるか──『水中の哲学者たち』読書感想文

歩み寄ってくれる哲学に初めて出会った。
永井さんの文章は、一つ一つが彼女の身体性と共にあって、この世の出来事としてたしかに存在するんだとわかるとてもクリアな描写で、そこかしこに溢れたくすぐったいユーモアと一緒にじんわり心に染み込んでくる。

エッセイとして、抜群に面白かった。


永井さんは哲学研究の傍ら、いろいろな場所で「哲学対話」を行っている。
哲学対話とは、

対話の参加者が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていくという対話のあり方

教育図書NEWSより引用

という行為。

ほとんどライフワークのように、学校や、文化施設や、企業や、時に街頭(!)などで、ファシリテーターとなり行ってきた哲学対話を通して得た彼女の考えが、ふわりふわりと章立てされて展開される。

永井さんの文章を読むと、なんだか安心する。
彼女は、時折本の中で自分の弱さをさらけだす。

わたしは対話が怖かった。
人前で話すこと。他者、時には見知らぬひとの意見をじっと聞くこと。他者に質問されること。ひとと一緒に考えること。他者を傷つけないか、おそれながら話すこと。他者に傷つけられないか、おそれながら聞くこと。

「飛ぶ」より

(直接お会いしたことがないから憶測でしかものが言えないが)おそらく、外面からは到底そうは見えない彼女が吐露する彼女の本質。
対話が怖い、というこの部分に共感する人は多いのではないだろうか。

「わかりあえないけどなんかいい感じ」の瞬間を求めて

対話というのはおそろしい行為だ。他者に何かを伝えようとすることは、離れた相手のところまで勢いをつけて跳ぶようなものだ。たっぷり助走をつけて、勢いよくジャンプしないと相手には届かない。あなたとわたしの間には、大きくて深い隔たりがある。だから、他者に何かを伝えることはリスクでもある。跳躍の失敗は、そのまま転倒を意味する。ということは、他者に何かを伝えようとそもそもしなければ、硬い地面に身体を打ち付けることもない。

「飛ぶ」より

わたしは一回きりのチャンスしかない会話が嫌いだ。

人が真からわかりあえないことは、人生40年も過ごしていればいやでもわかる。だからこそ、わかりあえない時に「次はこうやればわかりあえるかも」といろいろ考えを巡らせるのがとても好きなことに最近気づいた。

しかし、チャンスが一度きりしかない出会いは、それができない。
「ああ伝わらないな」と絶望してあれこれその場で試行錯誤した挙句、本心と口から出る言葉が乖離していくさまを、身体から離れて空中から呆然と眺める自分がいる。そんな時間がいやだ。
だから、次のチャンスのない会話は、わたしは好きではない。

一方で、次のチャンスがある会話は、無理をする必要がない。
「話が通じなかったな」と内心で大きなため息をつきながら、すごすご家に帰って、次の作戦をせこせことねる。

あの人はどうしてあのような発言をしたのだろう。
あの人はどうしてあのような態度を取ったのだろう。
あの人はどういう考えを持っていて、どこでならわたしたちは折り合えるのだろう。

考えを巡らせて、ようやく通じ合えた時の一瞬の快感(実はこの間に数年経っていることだってよくある)。

その快を得るためにわたしは、“この人とは会話を諦めたくない”と思う人との会話を重ねるのをやめないんだろう。
その周りくどくて困難な道は、意外にも実を結びその人との絆として残ることを実感し始めているわたしは、「絶対にわかりあえない可能性」への怖さと、「もしかしたら同じ方向を向けるかもしれない可能性」への希望の狭間で揺れながら、辿々しい言葉を重ねるのだろう。

──見も知らない人と、初見で哲学対話を交わし続ける永井さんは本当にすごいと思う。他人に向かって勢いをつけてジャンプし続けるのは、並大抵のことではないから。
そして「すごいな」と思うと同時に永井さんがそれを続けることのできる“根源”を知りたいなとも思う。

変化はあたりまえなのに

その“根源”だが、本を読んで少し察しのつく側面もある。
永井さんは、信念というものが壊されることも含めて、変化を楽しむ人なのだ。

(思い込みで凝り固まった自分をあっけなく打ち砕いてくれる人たちとの出会いと同じく)
哲学対話をしている時にも、同じような喜びがある。わたしの硬直してしまった信念を誰かがあっけなく壊してしまう。こわくて、危なくて、うれしくて、気持ちがいい。

「ガシャン」より

信念は、美しい。けれど、生きていれば、考え方が変化するのは当然だ。
考えが変化しないと思い込むことは危険だ。自分の信念からくる“正しさ”への思い込みは、時に自分を不必要に怒りに誘い、他者を傷つける。自分の正しさを疑い、破壊し続けることが人生には必要なのだと思う。

しかし、本書の「変わる」の章段にも永井さん自身の体験談が書かれていたが、人が変化することをよろこんで認めてくれる人はそう多くない。

わたし自身も、自分の考えが変化することにずっと戸惑っていた。自分は信念がないのかと不安になったし、考えが変わることは過去の自分への裏切りのような気がしていた。その時に口に出したことを「嘘」にする行為だと思っていた。
でも今はそれは違うと思う。考え方が変化することは、自分への裏切りではなく成長だと、そう思えるようになった。

真剣に向き合ってもわからないものはある

哲学書をひらく。強そうな言葉が並んでいるな、と思う。学生がやってきて、「これってどういう意味ですか」と聞いてくる。わからない、と思いながら、説明をする。学生が「なるほど、わかりました」という。わかるのか、すごいな、と思う。
哲学対話をしに出かける。参加者のひとの言っていることがよくわからない。でも、わからないとは言えない。なんか悪いな、と思う。わかりません、って、相手を拒絶するようで言いたくない。代わりに「それってこういうことですか」なんて聞いてみる。他の参加者のひとが「いや、違うんじゃないですか」「そうではなくて」と言う。ごめん、と思う。
〜 中略 〜
永井さんは哲学に救われたんですよね、とも言われる。そうなのかな。わからない。
でも、哲学があってよかったなとは思う。

「ぜんぜんわからない」より

わたしたちはアンパンマンのマーチを気軽に口ずさめるのに、そこに「テツガク」なんて冠をかぶせてしまうと、まるで崇高な営みであるかのように思ってしまう。

「死ぬために生きてるんだよ」より

世界は理不尽で、不条理で、めちゃくちゃで、暴力的で、意味不明である。だが言い方を変えれば、世界はボケつづけているとも言える。だって、せっかく生まれたけどわたしたちは絶対死にます、なんてマジで「なんでやねん」としか言えないレベルのボケである。

「世界、問題集かよ」より

優しいのに強烈なユーモアに、時折ふふっと笑いがこぼれる。
冒頭に書いたように、永井さんの哲学はこちらへ歩み寄ってくれる。
寄り添ってくれる文章を読みながら、自分の考えを振り返りまとめる良い機会となった。

観念論、実在論、唯名論。わたしはそんな言葉を知っているけど、まだ彼らを見つけていない。でも、哲学対話をしていて、興奮した小学生の口から、大きな目をした友だちの口から、眠そうな先輩の口から、見知らぬ大人の口から、ふとこぼれた言葉に、プラトンやヘーゲル、デリダの姿を見つけることができる。

「先生、ハイデガー君が流されています」より

人生は、見つけていないものを見つける旅。


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待ち続けることようやく7か月目にして読んだ本でした。

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