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自分の物語を忘れないで──『忘らるる物語』読書感想文

大好きなファンタジージャンルを久しぶりに読みました。十二国記の新シリーズ『白銀の墟 玄の月』以来かも。
梨の木の読書記録さんの記事でお見かけして気になっていました。

高殿さんの作品ははじめて読みましたが、大人向けのだいぶ骨太なハイファンタジーでした。



世界観

その世界の「誰も知らない果ての果てのさらに果て」に、最強の女性たちがいる。子宮に神を宿し、男性を“消し去る”力を持つ女戦士たち。

一方でその世界には、男性を中心とした社会が根付いている。
帝国“燦”をはじめ、「世界に幾万」と誇張されるほど数多ある国々は男性の手によって統治され、女性は国を一族を栄させる次世代を生むためにあるものである。

この世界に生きる女性のあり様を端的に示すために、登場人物の一人──自ら望んで身一つで“果て”に飛び込み、子宮に神を宿したテセレンの独白を引用する。

「最初に結婚したのは十二歳だった。ありったけの持参金をつけてもらって、身動きできないくらいの婚礼衣装と、自分の重さと同じだけの銀をもって嫁いだ。婚家は大喜びでわたしを歓迎してくれた。大事にされて幸せだった。なのに、子供ができないとわかると、夫も夫の親族も新しい嫁を探し始めた」
 占星術で相性を見たはずなのに、神に選ばれた相手のはずだったのに、それはなかったことにされて、すべてテセレンが悪いことになった。嫁いだ日に小さな身体いっぱいに着つけてもらった金糸銀糸の婚礼衣装は、彼女の“所有者”が替わるたびにすべて剥ぎ取られ、裸一貫になってさえもむしり取られた。柔らかな皮膚や健やかさや笑顔までも、巻き付けた帯をほどくようになくなっていった。同時に、テセレンは自分までもなくなっていく気がした。
「どうしてこうなったんだろう。新しい場所へ嫁がされるたび、自分の何が悪かったんだろうって思ってた。その間にどんどん歳をとって……」
 実家に見放され、子も産めず容貌の衰えたテセレンをだれも抱きしめてはくれなくなった。彼女にも、この世にもう抱きしめたい相手も触れたい相手もいなかった。
「なんのために生まれたのかわからないまま死ぬくらいなら、なにかに成ってから死ぬ」

第2章 鳥爬藩国

どん底のどん底。しかし、テセレンは動いた。
「自分を忘れない」──これが、この物語の大きなキーワードになる。

子持ち女性は主人公たりうるか

少し本題から話がそれる事をご容赦いただきたい(しかも私感強めなので、適当に読み飛ばしてください)。

私は小さい頃から物語を読むのが好きだったのだが、中学生くらいの時だろうか「なんで小説には中年女性の主人公がいないのかな?」という疑問を持ったことを、ふと思い出した。

そのような物語に自分が出会っていないだけ、ということを差し引いても、割合はとても低かろうと思う。

美しかったり活力に溢れたりなうら若き乙女の話はいくらでもある。
そして、“おばあちゃん”と呼ばれてもよいくらいの年齢になると、また主人公として躍り出てくる場合がある。例えば「スプーンおばさん」や「ばばばあちゃん」。見事なまでに強烈で代替の効かない主人公だ。

なんでかな〜。中途半端に老けた見た目のせいか。キャラ立ちしないからか。
いや、世間の需要がないのはなんとなくわかるのだけど(笑)、なんでメインにならないのか、面白くならないのか。

今まさにその年代にある私は、その理由のひとつであり、その理由の中でかなりの割合を占めるものがなんとなくわかった気がしている。

その年代の女性にはたいてい自分が身を挺して守るべき幼い子どもが常に傍にいる。子ども(自分ではない誰か)が、自分の人生においての一番の優先順位になる。
そうすると自分自身の物語を紡げなくなるからじゃないかと。

運命に翻弄される環璃と、果ての最強の戦士チユギ。本書の主人公格の2人はいずれも女性だが、2人とも子どもが(自らの手元には)いない。
『守り人シリーズ』の魅力的な主人公バルサには子どもがいないし、『赤毛のアンシリーズ』は、アンが子どもを産んだあとのストーリーは子どもたちに焦点が当たり始める。

母親となった女性は子どもとセット扱いになり、どうしても母親個人の物語ではなくなってしまう。自分を主語に語る内容があからさまに少なくなる。

もちろん子どものいない女性も、男性も、守るべきものがある。人生において守るべきものがない人間はいない。
でも、その“守るべきもの”が概念なのか実体を持つものなのかという違いは、とても大きい。
子どもを育てるということは、精神的にだけでなく身体的にもかなりの束縛(言い方が悪いが、でもこう感じることは多いはず)を受ける行為だからだ。

この物語から何を感じとるか

※ネタバレしてますのでご注意ください。

さて、小説本体の感想に話を戻すと──この話はジェンダー小説、フェミニズム小説と読むこともできる(もちろんテーマのひとつとしては意識されているだろう)。
しかし主テーマはもう少し異なるところにあるのではないかと思う。

女性解放の思想を至上とするなら、果ての女戦士たちが帝を打ち、世界を統治する結末もあっただろう。
けど、このストーリーの終着点はそうではなかった。

支配とは、自由とは何か。
強さとは何か。
そして、皆が幸せになれるユートピアはどこに存在するのか。

一族も夫も子どもも、尊厳も、何もかも奪われた辺境の民の環璃。
たくさんの臣民と、幼馴染の近臣に傅かれている燦の帝。
神を宿し、男性をもしのぐ力を手に入れた果ての女戦士たち。

登場人物の誰もが、特別なものなど何も持っていなかった。
そして、なにも持っていないようで、必ず何かは持っていた。

人はたびたび「ものがない」「金がない」「才がない」「親しい人がいない」「自由がない」などと嘆くことが多いけど、でも実際、人生において一人の人間が手に入れられるものはそれほど多くないはずだし、手に入れたものに幸せを感じないのであれば、いつまでも納得も満足もいかないのであれば、そしてその状況に甘んじるのであれば、そりゃ不幸に決まっている。
この世に生きる人間である限り、真から満たされる人など誰もいない。

結局、幸せとは自己満足だ。

物語の最後に、主人公の環璃はこうつぶやく。

「息子は、わたしのための物語じゃない」

「忘れないで、自分を。そして忘れないで、わたしを」

その自己満足のために、自分は何を手に入れなければいけないのか。
自分はなにのためにあるのか。なにを求めているのか。
貪欲にそれを追い求めることこそが、何かを得るための唯一の道だと。

「自分を忘れないでいること──どんな状況であっても、そこに唯一の活路と希望がある」
というのが本書を読んで私が一番強く感じたメッセージだ。

ユートピアなんてない。けれど、ユートピアはつくれる。
自分を忘れなければ。


番外|印象に残ったフレーズ

本書はそれぞれの国や登場人物が個性的に描かれていて、それぞれの意思や哲学を感じさせるフレーズが随所に散りばめられている。
世界を通じて作者の思想が伝わってくるようで、そういう意味でもファンタジーという仮託舞台を用いる醍醐味を感じる作品だった。

特に印象に残った箇所を三つほど備忘録として挙げておく。

「なぜかヒトという生き物は、焦ったり心配したりハラハラしたり歓喜したりするだけで、ひどく満足するということさ。それが娯楽によって与えられた体験であっても、身体はそれだけ“自分が”生きたと解釈する。自分の経験ではなく、他人の人生体験であるのに、共感し同調するだけで素晴らしい満足感が与えられるようになっているのさ。便利だろう。大昔の頭の良いだれかが、大勢を効率よく支配するために利用しようと考えたのも不思議じゃない

第3章 胡周藩国

誰かが考えたシステムで、この世はなりたっている。そのシステムは、人間が考えたものだから、必ず誰かの都合の良いようにできている。仕組みも常識もつくられたものであるから、「なんで」の部分を考えると少し物事の本質に近づける気がする。

「人間であろうと、動物であろうと、何年も血肉を得て生きてきた身体そのものには価値がある。戦や病でその命の歩みが止まったとしても、土に還りなにものかになってよみがえるからわたしたちが皮を剥ごうと、骨を飾ろうと、丁重に布でくるんで土に埋めようと同じよ。死は死。死は量ることはできない

第5章 土兒九藩国

自分の死生観と近しいなと感じる。
死は一度きり、死は平等。それ以上でも以下でもない。死が訪れたものに対し、この世に残るのはその人ではなくただの物質でしかない。

美しさとは、人の不在なのだな、と環璃は思った。しかし、人が交じり色彩が混ざり合うことで生まれる調和の美もある。昔、故郷の集約にやってきた壁画化の集団が、色は混ぜれば混ぜるほど黒に近づき、もう二度と元の色に戻ることはないのだと言っていた。であれば、人が美しさを保つためにほかのあらゆる色を排除しようとするのも、ある意味理にかなっているのだろう。

第6章 首里無

美とは何か、の解釈が興味深い。
思想においても他者と交わると濁ると感じることは確かにある。それをネガティブに捉えすぎる結果が他者排斥なのかもと。
美を追い求める行為は本能的で尊いが、無意識的にそれを自分の行為の大義名分にしているところがある──そのような、気づきたくない“裏面”にやんわり言及する鋭さを感じた箇所。


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