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沖縄そば製麺大王現る|Report

まずこの広告内容をみてほしい。

本日開店/神里原名物出現!/琉球初の純手打ち/気軽るに入れる皆様の味の店/夫婦そば/風味、量、値段三つの点できつと皆様の御満足を戴ける當店自慢のそば/その他琉球料理一切/夫婦そばのおいしさを試して戴くために開店◉◉をかねて本日より三日間先客百名様に限り夫婦茶碗(一揃い)を◉◉致します/◉食堂 宮良◉子

【出典】1951.09.22 沖縄タイムス

沖縄そばは商業化された当初から、店で手打ちする自家製麺であった。上記で「琉球初」なんて書いているのは明らかな誇張である。

しかし、戦後の復興期からそば屋の数が増え、製麺を専業として行う業者の数もまた増えていった。その需要を牽引したのが、建設業従事者の昼食利用である。この時期、戦争被害からの復興をめざした琉球政府による公共事業、朝鮮戦争とベトナム戦争を契機とした米軍基地建設の強化など建設業が伸長していた。


製麺工場建設の記事

製麺工場建設の記事2篇をご覧いただこう。なんだか景気がいい話だ。

首里に製麺工場/今日試運転/月産二万ケース

規模の大きさではかつてない位大仕かけで、首里儀保町に建築中であった西森製麺工場はこの程漸く大方の施設を終え、きょう五日、待望の試運転にとりかかることになった。
事業は勝連盛隆氏、永富一夫氏が中心になって昨年九月ごろから総工費八百万円で手をつけたものだが、工場敷地は約一千坪、首里那覇を見下して総二階、建坪三六〇坪のブロック建、それに一階の一二〇坪の室内乾燥場、一基の特大製麺機も取付が完成している。地下に一万箱の製品を格納する倉庫、製麺から乾燥まですべて電化による一貫作業で殊に一八〇台も備えつけられた扇風機など、施設は近代的とされている。当初の第一次生産能力では月産一万八千ケース(ケース一八キロ)の乾麺素麺を目標に、二月早々には本格的な運営に入る構想であり、然も二階の乾燥場の取付によって更に二基の製麺機を取付け、第二次の生産計画では沖縄の毎月の消費量約四万ケースの七五%は島内製麺で自給しようとの計画である。
勿論原料のメリケン粉は輸入に仰がねばならないが、毎月二万袋の使用料としてすでに第一物産を経て日本製粉会社と契約済みであるが、これも近い将来、沖縄製粉会社の事業開始とともに同社とタイアップして原料も島内産に切り替えようというもの。
写真は機械の取付けを終った西森製めん工場全景

【出典】1955.01.05 沖縄タイムス
  • 西森製麺工場が首里に建設され、1955年1月5日に試運転が始まった。

  • 工場敷地は約1,000坪と広く、2階建て建坪360坪で、120坪の乾燥場を備える。

  • 工場地下に1万箱を格納する倉庫を有し、製麺から乾燥まで近代的な設備で行われる。

  • 2基の製麺機を追加し、沖縄の毎月消費量の75%を自給する計画。

自動乾燥装置を設備/充実するオキコ製麺施設

昨年十月以来拡張工事中だったオキコ製麺工場(真和志市寄宮)はこの程すっかり完成、昼夜操業を行っている。<中略>
機械設備は最新式の田中式製麺機二基を備え、さらに日本でも二、三カ所しかないという自動乾燥装置(蒸気乾燥)をしたことは画期的だといわれる。これは乾燥室の上にスチームパイプをはりめぐらして空気を暖め、その上に扇風機を備えて下に吹きつけ、その下を蛇行式にとりつけられた自動式コンペヤーでそばがゆっくり移動する仕かけになっており、これが一巡するのに約四時間を要しその間にすっかり乾燥してしまう。
同工場の生産能力は日産六百五十ケースで現在は約六百ケースを生産しているが、これは全琉消費量の約三十%にあたる。

【出典】1956.01.31 琉球新報
  • オキコ製麺工場(真和志市寄宮)が拡張工事を経て完工。

  • この工場は最新の田中式製麺機2基を備え、日本でも稀な自動乾燥装置を導入している。

  • 約4時間で一巡する間にそばが完全に乾燥する。

  • 現在は約600ケースを生産し、これは全県消費量の約30%に相当する。

※記事と直接の関係はない新聞広告です

県内製麺体制強化の光と影

県内での沖縄そばの麺製造の能力は上がり、ほぼ自給できる状況になった。だがその反面、乾麺や麩の生産にはマイナスの影響も及ぼしている。

増大する小麦粉の需要/麺類の輸入は下落辿る

小麦粉の麺類の五四、五五両年における輸入推移を見ると原料たる小麦粉の輸入増加傾向に対し製品たる麺類は輸入減少傾向にあるがこれは製麺、製パン、製菓など小麦粉加工業の伸展を物語るものである。<中略>
麺類/戦前は専らソーメンの輸入だけだったが戦後はソバが考案され現在ではソバが圧倒的に多くなっている。この麺類も最近島内の製麺業が相当充実されて来たために島内における麺類の生産が向上し従って輸入は減少するという傾向にある。<中略>
これを数量で見ると五四年に約八十七万ケースも輸入されたのが五五年は約六十五万ケースとなり約二十二万ケースも減少した。

【出典】1956.02.16 琉球新報
  • 1954〜1955年では、小麦粉の輸入が増加している一方で、麺類の輸入は減少している。

  • これは製麺、製パン、製菓など小麦粉を加工する産業が発展している証。

島産品を育てよう終/粉とメン/1キロ入小麦粉近く発売/粉、麺とも自給の域/四苦八苦続ける乾麺業者

【製麺】島内における麺の全消費量は月間五-六万ケース。十六軒の工場で殆ど自給を満たしている。
どこの市町村いってもソバ屋はありソーメンを造る業者もうんと繁盛しているだろうという一般の見方は表向き、裏に回ると麺業者だけでなくメリケン粉を原料に使っている製パンおよびフ製造業者は倒産すれすれの線を歩いているとのこと。それは政府の島内産業育成政策で輸入粉を規制し、島産製粉を使わざるを得ないためコストが高くついているのだという。
それだけに麺、パン、フ業者は政府の政策に対しては一番不満を抱いている。<後略>

【出典】1958.11.30 琉球新報
  • 県内の麺消費量が月間5-6万ケースに達しているが、乾麺業者(パン、麩を含む)は苦境に立たされ、倒産の瀬戸際にある。

  • これは政府の県内産業育成政策により、輸入小麦粉が規制され、県内産の製粉を使用せざるを得ないため、コストが高騰しているため。

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